萬晩報(
http://www.yorozubp.com/)で面白い記事を見つけた。
園田義明 氏による「薩長因縁の昭和平成史」だ。
まださらに続きそうだが転載する。
下記に転載する
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薩長因縁の昭和平成史
萬晩報通信員 園田 義明
■序文
本稿は戦前の天皇の
インナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めた
エリート集団と位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。
薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。
これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。
かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。
本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。
日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。
戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。
この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。
平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である。
なお、本稿には日本国憲法における象徴天皇制及び戦争放棄に大きな影響を与えた新渡戸稲造とそのクエーカー人脈が再度登場する。さらに、歴史に埋もれたままになっている敬虔なクエーカー外交官も取り上げる。従って、「ビッグ・リンカー達の宴2」シリーズの続編としても位置付けたい。
岸の血を引き継ぐ長州8人目の安倍晋三首相からこの物語を始めたい。
■長州8人目の首相に向けられた二つの遺言
長州8人目の首相が誕生する。1885(明治18)年の内閣制度発足以来、長州は初代伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作(岸信介の実弟)の7名の歴代首相を生み出してきた。8人目の安倍晋三にとって岸信介は祖父、佐藤栄作は大叔父にあたる。
この7名に戦前の満州国の実力者として「二キ三スケ」と呼ばれた5人の人物を加えることで、安倍の長州人脈がより一層理解できる。二キは東条英機と星野直樹、三スケとは岸、松岡洋右、それに日産コンツェルンの創設者である鮎川義介を指す。岸、松岡、鮎川の三スケはともに長州出身の縁戚トライアングルとなっていた。
この岸の血を引き継ぐ安倍晋三の『美しい国へ』(文春新書)の発売日は7月20日、この日の朝に届けられた日本経済新聞に安倍晋三と縁戚関係にある松岡洋右の名前が登場、日本中が騒然となった。(『美しい国へ』の発売日から5日後、購入するために誤って「美しい国」で検索したところ、統一教会と国際勝共連合の会長を務めた久保木修己の遺稿集『美しい国 日本の使命』(世界日報社)が飛び出てくる。ここに「美しい国」の向かう先が暗示されているのだろうか。)
この日本経済新聞に掲載された昭和天皇が当時の富田朝彦宮内庁長官に語ったとされる富田メモの信憑性をめぐって様々な議論が巻き起こっているが、1944年7月16日付東条英機名文書で、靖国神社合祀基準を戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属に限ると通達していたこと(8月5日付共同通信)を考えれば、昭和天皇の不快感がA級戦犯ではなく、東条の示したルールを無視して勝手に合資を決めた旧厚生省や靖国神社に向けられていたとの見方も浮かび上がる。
とはいえ、昭和天皇独白録の中で松岡洋右を「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思われる」と厳しく批判していることから、昭和天皇は松岡と白鳥敏夫元駐イタリア大使が推進した日独伊三国同盟締結を戦略的な失敗だったと見ていたことを否定するのは難しい。
組むべき相手を間違えてはならないとの昭和天皇の思いが遺言同様の重みを持ってずしりと伝わってくる。
そして8月1日、旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)最後の頭取であった西村正雄が急死した。西村は故安倍晋太郎の異父弟で、安倍にとっては叔父にあたる。
この西村は『論座』7月号に「次の総理に何を望むか−経世済民の政治とアジア外交の再生を」とする論文を書いている。名指しこそ避けているものの明らかに安倍に向けられたものであり、ここでもまた松岡の名前が登場する。
『民主主義が陥りやすい欠点は、ポピュリズム政治である。特にテレビが発達した小選挙区制度の下では、その傾向が強くなりがちである。テレビに頻繁に出て、若くて格好良い政治家が人気を博する。また、
中国の反日デモなどを機に「強い日本」を煽るナシャナリスティックな政治家がもて囃される傾向がある。このような偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家に課せられた大きな使命である。戦前、松岡洋右外相の国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結を当時のマスコミが歓迎し国民もこれを支持した結果、無謀な戦争に突入したが、最近似た傾向が出ていることは憂慮される。』
森田実によれば、死の直前、西村は安倍に宛てた手紙の中で「ここ(『論座』7月号)に書いてある内容は、君に対する直言であり、故安倍晋太郎が生きていれば恐らく同意見と思うので良く読むように」と伝え、更に次期総理は時期尚早、小泉亜流は絶対不可、竹中等市場原理主義者や偏狭なナショナリストと絶縁し、もっと経験を積むようにと言い込んだとのことである。
この西村の手紙は週刊現代の『安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈』シリーズでも取り上げられている。靖国神社が運営する戦史博物館「遊就館」の存在が米国との関係悪化につながるとしながら、「国家を誤らせる偏狭なナショナリストと一線を画すべき」と重ねて書いている。
テレビに頻繁に登場し、演説には大勢の女性が押し寄せ、偏狭なナショナリズムを抑えるどころか先頭に立って「強い日本」を煽り、『美しい国へ』で闘う姿勢を示した。
おそらく西村は安倍の親代わりとして、その行く末を松岡に重ね合わせていたのかもしれない。この西村もまた安倍に対して組むべき相手を間違えてはならないと警告していたのである。
まずは今まさに誕生した長州8人目の首相と偏狭なナショナリズムの接点となっていると思われる「長州の護国神社のような存在」としての靖国神社から歴史を振り返ろう。
■靖国における官軍と賊軍
1869(明治2)年、明治維新時の戊辰戦争で亡くなった官軍兵士を祀るために靖国神社の前身である東京招魂社が創建、これに尽力したのが長州の大村益次郎、1872(明治5)年に社殿(本殿)が完成し、正遷宮祭が執行された時の祭主は長州の山県有朋であった。1879(明治12)年に別格官幣社と列格されて靖国神社に改称、以後敗戦まで陸軍省と海軍省と内務省が管轄官庁となった。
山県は「日本陸軍の父」と言われた大村の意志を継ぎ、参謀本部を権力基盤に、長州の陸軍、薩摩の海軍という棲み分けを謀りながら、「陸軍のローマ法王」として陸軍の前期ほぼ50年を長州閥で実質支配した。またその派閥網を掌握しながら軍のみならず政界にも君臨、内閣製造者にして内閣倒壊者として桂、寺内、田中政権を生みだしていく。
この山県の権力も1921(大正10)年の宮中某重大事件で失墜、その翌年に死去し、以後長州閥全盛時代が崩壊していくかのように見えた。しかし、実際には政・官・軍・財へと人材が配置され、現在まで脈々と引き継がれてきた。その象徴となった地が戦前の満州国であり、ここで革新官僚を代表したのが安倍の祖父、岸信介である。
岸は関東軍参謀の秋永月三らの画策により、商工省工務局長から満州国に転出、満州国総務庁次長として「満州産業開発5か年計画」を実行に移し、満州を官僚統制経済システムの壮大な実験場にしながら、東条英機に接近していくことになる。
一方で官軍兵士を祀るための靖国神社には、朝敵であった会津白虎隊同様、南部藩士も庄内藩士も祀られていない。東条英機の父東条英教は南部藩士、陸大を最優秀の成績で卒業しながらも長州閥によって昇進が阻まれ、予備役中将として軍人の生涯を終える。東条の長州への恨みにも似た感情の背景には父の受けた仕打ちがあった。東条は永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次などとともに陸軍に蔓延る長州閥打倒、国家総力戦体制、統帥権の確立を目指して立ち上がる。
昭和の戦争の出発点は1931(昭和6)年の満州事変。その首謀者は石原莞爾と板垣征四郎とされる。石原の父は庄内藩士、板垣の父は東条と同じ南部藩士である。彼らは「賊軍」の汚名を晴らすべく軍閥を形成しながら昭和の戦争を主導し、戦後南部藩士の息子二人は絞首刑となった。
満州の地で長州と反長州が「二キ三スケ」として結合し、親密な関係を築いていく。一時ではあるが確かに「官軍」と「賊軍」の立場が入れ替わっていた。二人を結びつけたのは岸の関与したアヘン密売によるカネの力であったとする説が今なお語り継がれている。しかし、岸と東条の関係も長くは続かなかった。
東条の引きもあって東条内閣の商工大臣となった岸も、劣勢への対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼国務相)に降格されたことから東条との関係が悪化、サイパン島陥落(1944年7月)によって戦争継続を不可能と判断した岸と本土決戦覚悟で戦争継続を目論む東条との対立が決定的となり、岸の辞任騒動に発展、これをきっかけに東条内閣は総辞職に追い込まれる。
■長州系宮中グループの中心人物
この時、岸信介の背後から「反東条・倒閣」を指示していたとされる黒幕が木戸幸一内大臣である。
木戸の父・来原孝正は長州閥の巨頭・木戸孝允(桂小五郎)の実妹・治子と吉田松陰の親友としても知られる長州藩士・来原良蔵の長男として生まれ、後に木戸家を継いで木戸孝正となった。この孝正と長州ファイブの山尾庸三の娘・寿栄子の間に生まれたのが幸一であり、その妻・鶴子は日露戦争の英雄、児玉源太郎陸軍大将の娘である。長州エスタブリッシュメントの血を受け継いだ木戸こそが長州系宮中グループの中心にいた。
近衛内閣総辞職後、木戸は天皇の側近中の側近としての立場を利用しながら、皇族内閣に反対し、対米強硬派である東条を強く推した。昭和天皇への忠勤ぶりが目立つ東条を昭和天皇の意思が直接伝えられる首相に起用することで戦争回避に道が開ける。この木戸の甘い判断は、皮肉にも自らが岸を使って東条内閣を崩壊させるという結末を生んだ。
戦時中、木戸は「宮中の壁」となって重臣らの声を昭和天皇に届けようとしなかった。戦後木戸の残した日記は戦後連合国軍総司令部(GHQ)が戦犯容疑者の被告選定に活用されたが、この木戸日記は軍人被告らに対して不利に働き、陸軍軍人からは蛇蝎のごとく嫌われた。
敗戦時の国務長官にして玉音放送の際の内閣情報局総裁を務めた下村宏(下村海南)は、戦後間もない昭和25年5月に出した『終戦秘史』で、当時の宮中グループについて次のように書いている。
「私はまず近衛(文麿)、木戸という一線が牧野(伸顕)、湯浅(倉平)、鈴木(貫太郎)の一線に取って代わったということを指摘したい。近衛、木戸が軍を迎合せぬまでも軍と手を握った。軍の方から彼等をオトリにつかったという事実は否定できない。そこに近衛、木戸を引き立てた老境に入りし西園寺(公望)公にも責任の一端がある。」と指摘し、さらにこう続ける。
「木戸内府としての欠点は、この重大危機に当り、衆智をあつめて熟慮断行しなかったことである。歴代の内府にくらべて政府へ口ばしを入れすぎた。ことに人事の差出口が多く、相当長州閥のにおいも鼻についたことである。しかも牧野内府時代にくらべ、陛下への周囲のみぞを深くしたことである。さらに国家存亡の渡頭に立ち内府の重責に在り、しかも確乎たる信念を立つるあたわず、信念有るもまたこれを堅持するあたわず、東条内閣の策立を容認したことである。」
軍の方が木戸らをオトリに使ったのだろうか。むしろ、戦後の境遇を考えれば、木戸と長州閥のにおいがする岸らが軍をオトリに使ったようにも見える。東条らは木戸によって担がれ、踊らされ、ぶつけられ、最後にバッサリ切り捨てられたとの見方もできる。
その理由として、岸は巣鴨拘置所で行われた国際検察局(IPS)の尋問で、木戸との「特別の信頼関係」に触れつつ、東条内閣総辞職に果たした役割を特に強調しているからだ。「反東条・倒閣」を自己正当化のために最大限にアピールしていたのである。
この木戸周辺の策略によって近衛文麿が自殺に追い込まれたとする工藤美代子の『われ巣鴨に出頭せず』(日本経済新聞社)が注目されている。
■近衛上奏文の
ターゲット 木戸幸一の実弟・小六の長女正子は1939(昭和14)年に都留重人と結婚する。戦後日本を代表する経済学者として一橋大学学長や朝日新聞論説顧問を歴任した都留は、戦前のハーバード大学でE・ハーバート・ノーマンと深い親交を結び、二人はマルクス主義者としての時間を共有していた。
長野県軽井沢でカナダ・メソジスト教会の派遣宣教師の息子として生まれたカナダ人外交官ノーマンは、戦後連合国軍総司令部(GHQ)の対敵諜報部(CIS)の調査分析課長として政治指導者や政治犯の情報収集を行い、最初の仕事が米国外交官ジョン・エマーソンとともに行った府中刑務所からの志賀義雄や徳田球一ら16名の共産党幹部の釈放、次に行ったのが近衛文麿と木戸幸一に関する意見書の作成であった。
この意見書は近衛と比べて木戸には寛大だった。工藤美代子はノーマンと都留が合作した作文が近衛を貶めたと主張する。またノーマンが近衛を憎んだ最大の理由が「近衛上奏文」とマッカーサーと会見した際の「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」とする近衛発言にあったと書いている。
敗色濃厚の終戦年2月14日の近衛上奏文には、日本の敗戦は必至としながら、「最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」にあるとし、「コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向」を「皮相安易なる見方」と指摘しながら、「軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なし」と書かれている。
ここで工藤美代子は重大な見
落としをしているので指摘しておきたい。この近衛上奏文にある「これを取巻く一部官僚」とは、明らかに木戸と「特別の信頼関係」にあった岸信介をも指していた。またその上、木戸本人を指していた可能性すらある。
■革新勢力を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり
岸信介が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移した「満州産業開発5か年計画」を描いたのは宮崎正義である。
金沢の下級武士の家系に生まれた宮崎は、ペテルブルグ大学留学中にロシア革命前夜に遭遇し、満鉄きってのロシア・スペシャリストとなる。宮崎は世界恐慌の最中にあって驚異的な成功を収めたソ連の経済五カ年計画に着目、関東軍参謀の石原莞爾や戦後国鉄総裁として新幹線建設に尽力した十河信二らと経済調査会を発足させ、ソ連の経済五カ年計画を取り入れた日本独自の官僚統制経済システムを企画立案した。
岸と星野直樹は鮎川義介の協力を得て満州重工業開発を設立し、鮎川はここで官僚統制経済システムに修正を加える。末端の下請け産業の底上げを目的とした系列システムを統合させることで、より重層的なシステムに作り替えたのである。
満州国から帰国した岸は阿部・米内・近衛内閣のもとで商工次官を勤め、革新官僚の活動拠点になっていた企画院や陸軍「革新派」と連携しながら革新勢力を形成、満州産業開発5か年計画に端を発する戦時統制経済を日本に持ち込もうとした。
しかし、岸は阪急東宝グループの創業者として知られる自由主義経済人であった小林一三商工大臣と対立、企画院事件も重なり、小林は岸に対して「お前はアカ(共産主義者)だ」と辞任を迫った。このことは岸本人も『岸信介の回想』(文藝春秋)の中で触れている。この時、岸解任を決めたのが近衛文麿だった。これを機に過激な統制強化に反発する国会や財界は「革新官僚はみなアカだ」と非難し、岸もアカと見なされるようになった。(『岸信介の回想』の他に『「日本株式会社」を創った男』小林英夫・小学館、『岸信介』原彬久・岩波新書参照)
そもそも統制という言葉が法律語として初めて登場するのは、満州産業開発5か年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布された「重要産業統制法」である。これを立法起案したのがドイツのナツィオナリジィールンク(国家統制化)運動を学んで帰国した農総務省時代の若き岸だった。その実施にあたったのが岸とその上司、木戸であったことも『岸信介の回想』で岸本人が語っている。木戸と岸の特別な信頼関係は農総務省時代の上司と部下の関係によって培われた。
また木戸と近衛は京都帝国大学時代からの学友であり、岸を中心とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、近衛であり、木戸である。近衛と木戸は原田熊雄(西園寺公望の秘書)とともに「宮中革新派」を形成し、宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を握りながら牧野伸顕を支えた関屋貞三郎宮内次官を辞任に追いやり、この関屋辞任工作により薩摩系宮中グループから主導権を奪い取ったのである。
尾崎秀実をもブレーンとして重用していた近衛が、その上奏文で自身の「過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖」を「反省」しているのもこのためだ。
従って、工藤美代子が主張するノーマン・都留策略説はいささか公平さに欠いている。先に仕掛けたのは近衛である。近衛上奏文こそが木戸や岸ら長州系宮中グループへの裏切り行為を意味した。内情をよく知る近衛と原田は長州系宮中グループから薩摩系宮中グループに寝返ったのである。また同時に、近衛上奏文は木戸や岸をも「アカ」とするレッテル貼りが行われていた可能性すらある。
■天皇のインナー・サークルとしての宮中内の対立構図
それでは、誰がそのレッテルを貼ったのか。
近衛上奏文は近衛文麿と吉田茂率いるヨハンセン・グループ(吉田反戦グループ)の合作である。ヨハンセン・グループこそが薩摩系宮中グループである。その中心には牧野伸顕(薩摩藩士大久保利通の二男、吉田の岳父)、樺山愛輔(海軍大将・樺山資紀の長男)に吉田茂を加えた3名がいた。
この近衛上奏文は悲しいほどに非力ながらもヨハンセン・グループ最大の成果となった。しかもここで行われたレッテル貼りには、戦後を睨んだしたたかな戦略が読みとれる。そして、陸軍とともに長州系宮中グループもこの時点で敗北が確定した。
そもそも長州の山県有朋の権力が宮中某重大事件で失墜した直後の1921(大正10)年に薩摩の牧野が宮内大臣に就任、1925(大正14)年に内大臣となった。しかし5・15事件の影響から牧野の身を案じた牧野の女婿・吉田の意見もあって1935(昭和10)年に辞任する。木戸は1940(昭和15)年に内大臣に就任、牧野に代わって宮中政治を牛耳った。宮中某重大事件については諸説あるが、関屋辞任工作に見られるように宮中側近の座をめぐって長州と薩摩は熾烈な権力争いを行っていたのである。
このヨハンセン・グループには二・二六事件で予備役へ追いやられた陸軍皇道派の真崎甚三郎と小畑敏四郎も関与している。皇道派主導の二・二六事件で吉田の岳父であった牧野も狙われたことを考えれば、吉田と陸軍皇道派の協力関係は奇妙に見えるが、吉田らは東条率いる陸軍統制派に陸軍皇道派をぶつけるために手を組んでいた。また彼らを結びつけたのは「反ソ・反共」であり、日本が赤化することへの強い危惧を共有していたからだ。
陸軍省防諜課によって監視されていた吉田は、1945(昭和20)年4月15日、「近衛上奏文」に関連する容疑で憲兵隊によって逮捕される。この逮捕はヨハンセン・グループの反戦信任状(『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー)となり、戦後において極めて有利な経歴となった。
この反戦信任状の威力は、木戸(終身禁固刑)や岸(巣鴨拘置所収監)に対してヨハンセン・グループに関与した約20名の内、誰ひとりとしてA級戦犯起訴されていないことからもわかる。唯一の例外になり得た近衛も自ら死を選ぶことによって免れた。
また、有罪判決を受けた25名のA級戦犯の内訳を見ると、陸軍軍人が15名に対して海軍軍人が2名、さらに極刑となると東郷、板垣、武藤ら陸軍軍人が6名に対し、海軍軍人は一人もいない。長州の陸軍、薩摩の海軍の棲み分けと反戦信任状の威力を思い知ることになる。
■一つ目の御前会議機密漏洩事件とヨハンセン・グループ
吉田茂が憲兵隊によって逮捕されてすぐにジョセフ・グルー駐日米国大使との関係を問われたが、有害なものは見出せず、45日間の勾留を経て無事釈放される。実際にはヨハンセン・グループの中に、当時であれば間違いなく死刑に相当する重大な国家反逆罪を犯していた人物がいた。しかも、薩摩系宮中グループの中心にいたこの人物は吉田逮捕と同時に平塚市の憲兵分隊に出頭し、尋問を受けている。もしこの時この事実が発覚していれば、戦後の日本の歴史は間違いなく変わっていたであろう。
1941(昭和16)年9月6日の御前会議の内容をグルーにリークしていたのである。この御前会議で「帝国国策遂行要領」が決議され、その第一項で10月上旬を目途に戦争準備を完遂することを、第二項で日米交渉の継続を決めているが、この日本人情報提供者は第一項には触れずに第二項のみを伝えている。
グルーが書き残したこの年10月25日の日記を五百旗頭真の『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫)より引用したい。
「今日、日本政府の最高指導層と接触のある信頼すべき日本人情報提供者が私に面会を求めてきた。彼によれば、近衛内閣総辞職以前に御前会議があり、その席で天皇は軍の指導者たちに対し、対米不戦の政策の確認を求めた。陸海軍の指導者はそれに答えなかった。すると天皇は、祖父の明治天皇が追求した進歩的政策に言及して、自分の意向に従うことを陸海軍に命ずる異例の発言を行った。」
続けてこの日本人情報提供者のグルーへの依頼内容が記されている。
「近衛はこのたび総辞職し、東条内閣が組閣した。しかし、天皇は東条に対して、これまでのいきさつにとらわれず、対米協調を旨として憲法の条草をよく守り、行っていくように、という注意を与え、それを条件として東条の組閣を認めた。東条が現役大将のまま首相となったのは、陸軍を効果的に統制しつつ日米交渉を成功裡にまとめるためである。だから、軍の代表者が首班になったからといって、
アメリカとの対決姿勢を意味すると思わないでほしい。どうかアメリカ政府としては日本との交渉に見切りをつけず、東条内閣とも誠実に交渉をお続けいただきたい。」
四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ
昭和天皇は御前会議終了間際に懐からこの明治天皇の御製を取り出し、二度朗詠し、さらに「私はこの明治天皇の御製を愛誦し、その平和愛好の精神を自分の心に言い聞かせている」とつけ加えた。
これが「異例の発言」として「使者」からグルーへ伝えられた。グルーは日本人情報提供者との深い友情から敢えて名を伏せた。グルーにとってこの人物は宮中グループとの極めて重要な仲介人であった。またグルーは、この人物が属する薩摩系宮中グループこそが対日戦後政策を円滑に実現し、良好な日米関係を再構築する上で不可欠な存在と堅く信じ、何としても保護すべき対象だった。
日本側からすれば日本人情報提供者はグルーを介した米国への使者であった。従って、本稿では以後この日本人情報提供者を「使者」と呼ぶ。
■二つ目の御前会議機密漏洩事件と松岡洋右
実はこれとはまったく別の形でこの御前会議の情報は最高指導者スターリンにも伝わっていた。ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から、御前会議の3日後の9月9日付「特別報告」によってソ連内務人民委員ベリヤからスターリンとモロトフ外相へ伝えられていたことが明らかになった(05年8月13日付共同通信)。
日本政府内部に暗号名「エコノミスト」と呼ばれるソ連の日本人スパイが存在し、この「エコノミスト」は、左近司政三商工大臣(当時)が9月2日に行った要人との昼食で、日米交渉決裂なら開戦となり「9月、10月が重大局面」と明かしたとベリヤに報告、また、対米関係悪化のためソ連とは和平を維持し、外交方針はこれらの原則を基礎に決めるとの商工大臣発言を伝えた。
この記事の中で、下斗米伸夫法政大教授と袴田茂樹青山学院大教授は、ゾルゲや尾崎秀実の関わったソ連赤軍第四本部の統括下にあったスパイ網とは別系統のNKVD統括下のスパイ網が存在していた可能性を指摘している。
ここに登場する左近司は海軍条約派に属し、1935(昭和10)年より海軍主導の国策会社・北樺太石油会社の社長を務めた経験がある。当時、戦争に向けて陸・海軍間で石油の奪い合いをしていた。この石油が「エコノミスト」を特定する鍵を握っているのかもしれない。
現在の石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1・2」の原点でもある北樺太石油会社は、25(大正14)年の日ソ協定に基づき、オハを中心とする北樺太油田の採油利権を認められた時に始まり、左近司を含めた3名の歴代社長はすべて海軍中将が務めた。最盛期には年産約17万トン、ソ連開発分の買い入れを含めると約30万トン、これは当時日本国内の産油量の半分以上に相当し、日本の原油調達全体の約6%を占めていた。
日独伊三国同盟に続いて、41(昭和16)年4月に締結された日ソ中立条約の交渉過程で、モロトフ外相はこの北樺太油田の利権解消を要求する。実はこの時も松岡の動きと意図は直前の3月10日付でゾルゲを通じてスターリンにもたらされていた。この情報を手にしたスターリンは終始主導権を握る。この条約締結によって日、独との二正面作戦を巧みに免れたスターリンは北樺太の石油利権放棄という譲歩まで手に入れる。
それにしても米国との関係悪化が日本を石油確保に奔走させる中、北樺太油田は当時風前の灯火状態だったとはいえ貴重な安定供給源である。簡単に譲歩に応じた松岡の態度、加えて松岡は利権解消について議定書ではなく外相書簡にすることをソ連側に提案、この書簡は秘密扱いにしつつ、中立条約のみが外交成果として強調したことも極めて不可解と言える。ヒトラーではなく「おそらくはスターリンに買収でもされたのではないかと思われる」などと想像してしまう。
そもそも国際連盟脱退後、満鉄総裁として返り咲き、大調査部を発足させ、左翼からの転向者を大量に招き入れることで満鉄調査部内に「満鉄マルクス主義」を浸透させるきっかけをつくったのが松岡である。満鉄調査部にはその嘱託職員であった尾崎と満鉄調査部から企画院へ出向した小泉吉雄らを加えたコミンテルン人脈、それに中西功や尾崎庄太郎らを中心とする中国共産党人脈が巣くっていた(『満鉄調査部』『満鉄調査部事件の真相』小林英夫他)。
彼らのほとんどが「エコノミスト」による「特別報告」が行われた9月9日直後から、ゾルゲ事件(41年10月)、合作者事件(41年)、満鉄調査部事件(42年、43年)や中国共産党諜報団事件(42年)で検挙されていることを考えれば、この検挙者の中に「エコノミスト」が含まれていたのだろうか。
筆者には中国も事前に日米開戦時期をより正確につかんでいたとの情報が入っていることから、「エコノミスト」は満鉄調査部周辺の中国共産党人脈が怪しいと睨んでいる。中国には英国特殊作戦執行部(SOE)が深く潜入しており、コミンテルンも巻き込みながら英国・ソ連・中国間で日本情報を共有していた可能性すらある。
その根拠の一つとして、中国国民党の国際問題研究所(IIS=Institute for International Studies)の下部部門を英国が運営したという中英共同活動があげられる。その下部部門とはその名も資源調査研究所(RII=Resources Investigation Institute)である。どうやらコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員もここに出入りしていたようだ。日本という大敵の存在が彼らを一瞬結びつけた。それぞれの利害が複雑に絡まる中で、一致を見出す戦略目標が現れたからだ。
その戦略目標とは日本を米国と戦争させること、即ち日本を米国にぶつけることである。当時蘭印の石油はロイヤル・ダッチ・シェル(生産量の74%)とスタンバック(残り26%)の支配下にあった。スタンバックとはスタンダード・バキュームのことでスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(後にエクソンからエクソン・モービル)とスタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク(後にモービルからエクソン・モービル)の極東合弁会社である。彼らはこれに目を付けた。
石油で揺さぶり日本を米国と衝突させる。そして、石油欲しさの日本をロスチャイルドとロックフェラーの地へと追い込む。日本を南進させて虎の尾を踏ませるわけだ。これによって、戦争は激化し、長期化し、日本は破滅へと向かう。ソ連・中国としては日本の脅威を回避できる。英国は日本憎しで国内を結束させつつ、モンロー主義の米国を世界大戦に引き込む狙いがあった。
しかし、開戦間近との情報が続々と届く中、まさか日本が石油も無しに開戦するとは誰も思っていなかった。それほど日本は愚かではないと判断していたのである。ところが日本は無邪気にも自らぶつかっていった。こうした周辺各国の読み違いが真珠湾奇襲の成功をもたらした。
張作霖爆殺はソ連が日本軍の仕業に見せかけて行なったとするユン・チアンの『マオ』(講談社)の発表以来、日本はコミンテルンや中共の謀略によって嵌められたと声高に主張する右派系識者が続々と出現しているが、ここにも相変わらずの無邪気さが垣間見える。戦争ともなれば謀略などは当たり前で、嵌められる方が悪いのである。
それにしても真珠湾攻撃対象にオアフ島にあった大規模石油貯蔵基地が見落とされていたこと、ハワイを占領することなくそのまま帰還したことが不思議でならない。
■日米戦争は油で始まり油で終つた様なものだ
(『昭和天皇独白録』)
ここでの当時の石油事情を見てみよう。日本の石油生産量は年間40万トン以下、約500万トンの需要に対して自給率は1割にも満たなかった。石油の不足分は海外からの輸入に依存し、しかも極度に米国に依存していた。1940(昭和15)年の米国からの輸入量は337万トン、これは輸入全体の86%に達していた。
これでは米英と戦えないと判断した日本政府は、36(昭和11)年に総額7億7千万の巨費を投じる「人造石油7か年計画」を策定する。しかし、計画4カ年後(40年)の計画達成率はわずか2.5%という悲惨な結果に終わる。
御前会議の席上で企画院が説明した「開戦時石油需給見通し」がある。貯油は735万トン、開戦第1年の消費見込みが(陸軍、海軍、民間合計)が年間約600万トン、これでは早々にお手上げとなるので、収得見込みに頼りにならない人造石油26万トンを上乗せして国産分、南方還送分を含め合計74万トンにした。それでも二年で底が尽きるので、開戦第2年に南方還送分の取得見込みをドドンと175万トンに引き上げる。
かくして開戦後ただちにロスチャイルドとロックフェラーの待つ南方油田を占領し、石油を確保する戦略を決定、開戦二カ月後の2月14日には陸軍落下傘部隊がアジア随一の産油量を誇るスマトラ島パレンバン油田を奇襲し、120名の石油部隊が上陸する。
しかし、パレンバンの石油が順調に届いたのは約一年間。本気になった米国ほど怖いものはない。制海権、制空権を米国に奪われ、石油輸送路は寸断される。しかも石油タンカーが米国の最優先攻撃目標とされた。南方からの石油は45(昭和20)年3月の光島丸と冨士山丸に積まれたそれぞれ1万4千トンが最後となった。
まさに「日米戦争は油で始まり油で終つた様なもの」となった。
■もう一つの情報工作と薩会同盟
さて、一つ目の御前会議機密漏洩事件について、五百旗頭真は薩摩出身の東郷茂徳外相の意を受けて日本人情報提供者である「使者」がジョセフ・グルー駐日米国大使にリークしたとしている。
グルー日記に御前会議情報が記されたのは10月25日、その5日後の10月30日にロバート・クレーギー駐日英国大使から英国外務省あてに送られた公電を工藤美代子が発見している。
このクレーギー電によると「天皇が東条を首相にする時、米国との交渉を続けることと戦争を避けるあらゆる努力をすることを条件にしたとの情報をさらに確認した。この話は米国の同僚(グルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており、それによると陸海軍の代表は(近衛)内閣危機の時に開かれた重臣らの会合で、天皇から戦争につながりそうないかなる動きも慎むよう命じられた。しかし、天皇の介入がどんな形であれ、前例のない勇断であったことは間違いない」としている(1988年8月1日付朝日新聞朝刊)。
この内容からは御前会議と特定することはできないが、グルー日記の「異例の発言」を「前例のない勇断」と置き換えることもできる。また「米国の同僚(グルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており」となっていることから、グルーの入手した情報を英米間で共有していた可能性もある。
リークされた日時とその内容から、薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作であった可能性が高い。この時すでに敗戦後の日本の国体護持と昭和天皇の戦争責任訴追回避に向けた「昭和天皇免罪工作」が実行に移されていたと考えるべきだろう。裏を返せば、彼らは昭和天皇の戦争責任が問われることも有り得ると見ていた。昭和天皇が世代の近い木戸に傾斜していたことを認識していた。だからこそ工作が必要であった。
薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作には驚くべき協力者がいた。当時クレーギーと頻繁に接触していたのは松平恒雄である。この松平も薩摩系宮中グループと切っても切れない関係にあり、この時まさに薩会同盟が結ばれていた。
松平恒雄は駐米、駐英大使などを歴任した外交官で、当時宮内大臣を務めていた。戊辰戦争で最後まで官軍と戦った元会津藩主であり京都守護職でもあった松平容保の四男で、母・信子は佐賀の元鍋島藩主、鍋島直大の四女である。
会津藩の長州藩に対する怨念は消えていない。これをテーマにした書籍も今なお相次いで登場している。ここで必ず話題になるのが靖国神社である。ではなぜ会津は同じ官軍であった薩摩をほとんど取り上げないのか。会津は薩摩と和解したのだろうか。
これを説く鍵も「使者」と松平恒雄の関係にある。
■「使者」の正体
開戦後の翌年6月、ジョセフ・グルー駐日米国大使は交換船で米国へと帰国することになった。この時、父同様にグルーやロバート・クレーギー駐日英国大使と親しくしていた松平恒雄の娘は、加瀬俊一を介して、グルーにはメッセージとともに長い交友関係の記念として宝石箱を、抑留生活がしばらく続くクレーギーには御殿場で手に入れた緬羊の肉を届けさせた。加瀬によれば、メッセージと宝石箱を受け取ったグルー夫妻は流れる涙のために顔を上げられなかったという。
グルーに宛てたメッセージの内容は明らかにされていないが、松平は娘に対して「米英両国とも、国交回復の時が必ず来る。『お互い、その日を待ちましょう』と両大使夫妻に伝えては」との趣旨のアドバイスをしたとされる。
もし、父のアドバイスがメッセージに反映されていれば、当時とすればこれまた大問題になっていただろう。なぜなら松平の娘は秩父宮妃勢津子であり、昭和天皇の義妹にあたるからだ。
時は1928(昭和3)年1月18日。会津では「これで朝敵の汚名も消える」と三日三晩ちょうちん行列が繰り出されたという。この日、秩父宮雍仁親王と松平の長女・節子の婚約が正式に発表された。
旧皇室典範に皇族の結婚対象になるのは皇族または華族と決められていたために、恒雄の実弟で子爵の松平保男の姪として入籍が行われた。また、本名の節子(せつこ)が貞明皇后の節子(さだこ)と同じ字だったため、畏れ多いということで結婚を機に伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子に改め、秩父宮妃勢津子となる。
会津への想いは、宮家へ上がることが家族の自由を奪うことになるのではと泣いて悩み抜いた末に、養育係の口から出た「(家族)皆様、会津魂をお持ちでございます」の言葉に励まされ、結婚を決意したことからもわかる。
秩父宮妃は女子学習院在学中に貞明皇后に見込まれ、結婚に至るいきさつには貞明皇后の強い推挙があったといわれるが、そこには明治維新時の旧会津藩に対する誤解を解きたいとの極めて聡明な貞明皇后のお心遣いが感じられる。
秩父宮妃は自著『銀のボンボニエール』(主婦の友社)の中で「深い因縁」として樺山家との関係を回想している。学習院初等科時代からの親友であった樺山正子(後に白州次郎と結婚して白州正子)のこと、秩父宮妃の父・松平恒雄と正子の父・樺山愛輔がお互い信じ合い心を許し合った親友同士であったこと、毎年夏休みに富士山麓の樺山家の別荘で過ごしていたこと。そして、親友の父であり、父の親友でもある樺山が、貞明皇后の「使者」として事実上のまとめ役となったことなど。
貞明皇后の「使者」と開戦直前の米国への「使者」は同じ人物だった。グルーが深い友情から敢えて名を伏せた日本人情報提供者とは樺山愛輔である。この樺山も実はメソジスト派のクリスチャンであった。
■貞明皇后の接木
皇室とクリスチャンとの関係で見逃せないのが昭和天皇の母君、貞明皇后の存在である。ここで貞明皇后とキリスト教について、片野真佐子の『皇后の時代』(講談社選書メチエ)を参考にしながら紹介しておきたい。
病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添う貞明皇后は、1924(昭和13)年に8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に『神ながらの道』としてまとめられた。筧はドイツ留学時にキリスト教と
出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着くことになる。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であるとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。
この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。その接点となったのが晩年に内村鑑三の弟子である塚本虎二の影響から無教会派クリスチャンとなった関屋貞三郎とその妻で日本聖公会聖アンデレ教会信徒の衣子である。関屋は牧野伸顕に強く推され21(大正10)年に宮内次官に就任、以後12年間宮内次官を務めたことから万年次官と言われた。しかし、先に触れたように皮肉にも児玉源太郎の娘を妻に持つ木戸幸一や近衛文麿ら宮中革新派らの策略によって33(昭和8)年2月に辞任する。
実は関屋にとって生涯の恩師となったのが児玉であった。その関係は台湾総督府時代に遡る。栃木県に生まれた関屋は東京帝国大学法学部卒業後内務省に入省、1900(明治33年)には台湾総督府参事官に就き、7年もの歳月に渡って秘書官としても児玉台湾総督に日夜仕える。この児玉を取り囲むように、関屋、後藤新平民政局長と思われる人物、そして当時殖産局長を務めていた新渡戸の4人が揃った台湾総督府時代の写真が関屋の二男である関屋友彦の『私の家族の選んだ道』(紀尾井出版)に残されている。
友彦も母と同じ日本聖公会聖アンデレ教会信徒、三男・光彦は津田塾大学や国際基督教大学教授などを歴任し、その妻は日本YWCA(キリスト教女子青年会)会長として反核・平和運動に携わった関屋綾子である。この関屋綾子はスウェーデンボルグ主義の森有礼の孫であった。長男・正彦は日本聖公会司祭として活躍し、一時クエーカー教徒として普連土学園の校長を務めたこともあった。
後藤は衛生状態の改善や教育の普及などの社会基盤の整備に尽力し、さらには農業改革の指導者として同郷の新渡戸を抜擢、新渡戸はあくまで「自発的であること」を尊重しながら精糖工業の振興に努めた。彼らが今日の台湾の基礎を築き、今なお日本と台湾を結ぶ友好の架け橋となっている。
ここにも深い因縁がある。初代台湾総督を務めたのが樺山愛輔の父、樺山資紀である。すでに台湾時代の樺山周辺に近代教育の基礎を作った伊沢修二や人類学への情熱を胸に冷静な観察眼と温かい眼差しを持って未踏のアジアを歩き続けたフィールドワーカー・鳥居龍蔵の姿もあった。
戦中、関屋衣子は貞明皇后を訪れる。衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。
ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。
八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし
貞明皇后こそが世界に誇る堂々たる平和主義者であった。樺山含めた薩摩系宮中グループも、そしてジョセフ・グルーもまた貞明皇后が英米に差し向けた使者だったのかもしれない。我が子への母君の想いが薩摩系宮中グループを「昭和天皇免罪工作」へと向かわせたのだろう。
■秩父宮妃とフレンド・
スクールと三菱本家
実は先に紹介した『銀のボンボニエール』には、戦後の日米関係と日本国憲法をも左右する更なる「深い因縁」も記されている。
樺山愛輔が貞明皇后の使者として二度渡米したこと。当時秩父宮妃はワシントン市内のアイ・ストリートにある私立のフレンド・スクールに通学していたこと。フレンド・スクールがクエーカー教徒の学校であること。そして、フレンド・スクールに決めた理由は、父の前任者、幣原喜重郎のご令息がこの学校に通学されたことがあり、大変よい学校だという評判を両親が聞いていたことなど。
日本国憲法をつくった幣原喜重郎のご令息とは長男・道太郎か、次男・重雄のことであろうか。これは非常に気になる。道太郎だとすれば、後におよそフレンド・スクール出身者とは思えない言動をするからだ。
この秩父宮妃のフレンド・スクール入学には歴史に埋もれたままになっているクエーカー教徒の外交官、澤田節蔵の影響もあった。松平が駐米大使に起用された時に参事官として補佐したのが節蔵であり、『澤田節蔵回想記』(有斐閣)によれば、学校のことで迷っている松平大使に「クエーカーの学校の入学案内を取り寄せて大使にお勧めし、大使もいろいろお調べのうえ、お二人をこの学校(フレンド・スクール)に送られた。」としている。
お二人とは当然松平の長女・節子と次女・正子である。次女は後に徳川義親の長男・義和に嫁ぎ、徳川正子となった。おそらく松平は澤田の推薦をもとに幣原と相談して決めたものと思われる。実は幣原と澤田は縁戚関係にあった。ここに三菱本家の存在が見出せる。
澤田家の長男として鳥取に生まれた節蔵は、叔父に頼って鳥取中学から水戸中学に転学、ここでコチコチのクリスチャンであった母や叔父叔母の影響からクエーカー教徒となった。後に節蔵の妻となるのは薩摩出身で駐伊公使を務めた大山綱介の長女・美代子である。美代子も長らくローマに住み、帰国後は双葉女学校カトリックで学んでカトリック信者となる。
節蔵の弟である澤田廉三(澤田家三男)も日本キリスト教団鳥取教会(監督派)のクリスチャン外交官であった。廉三の妻となる岩崎美喜も結婚を機に念願かなって敬虔な聖公会信徒となった。結婚後の澤田(沢田)美喜は後に混血孤児救済で知られる
エリザベスサンダースホームを創立する。
岩崎美喜の父は岩崎久弥、祖父は三菱財閥創業者・岩崎弥太郎。つまり美喜は三菱財閥の本家にして第3代当主・岩崎久弥の長女であった。また、岩崎弥太郎の四女・雅子の夫が幣原喜重郎であり、澤田廉三との縁談を持ちかけたのは「加藤の叔父(加藤高明、弥太郎の長女・春路の夫)と幣原の叔父」だったと美喜は回想している。
この三菱本家のキリスト教受容について、久弥の米ペンシルベニアでのクエーカー家庭での留学生活の影響があったと美喜は書いている。クエーカーが皇室と薩摩系宮中グループと三菱本家をつなぎあわせていた。
余談になるが、澤田廉三・美喜夫妻の次男は澤田久雄、その妻は安田祥子である。今日もどこかで妹の由紀さおりとともに姉妹揃って美しい童謡を歌っていることだろう。
■澤田節蔵と松岡洋右
1921(大正10)年3月3日、皇太子殿下(後の昭和天皇)をのせた戦艦「香取」が横浜港からイギリスに向け出港した。大正天皇の病状が悪化、宮中某重大事件も重なり猛烈な阻止行動もあったが、皇太子の識見を広めることを最優先に洋行が実現した。訪問先はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア(バチカン含む)の欧州5カ国、日本の皇太子が外遊するのはむろん初めてのことである。
艦上には供奉長として随行した外交界の重鎮、珍田捨巳(メソジスト派)、山本信次郎海軍大臣(カトリック)、そして澤田節蔵(クエーカー)の日本のクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。バチカン訪問をねじ込んだのは山本信次郎だと言われている。
それから4年後の25年1月19日、日本のクエーカーの父・新渡戸稲造は昭和天皇に進講している。この時の席次は『新渡戸稲造研究』第12号に記されており、摂政の宮(昭和天皇)と摂政宮妃と同じテーブルで新渡戸が対座し、新渡戸の左手に関屋貞三郎宮内次官、右手には珍田捨巳東宮大夫、奈良武次侍従武官長、入江為守宮太夫(東宮武官長)と並んで澤田の名前がある。この澤田は松平恒雄の参事官として米国出発直前の澤田節蔵だったと思われる。
実はこの時牧野伸顕は関屋貞三郎に続いて、澤田を宮内省に転出させるべく幣原喜重郎(当時外相)を訪ねている。牧野もまた皇室とクリスチャンの接木役を担っていたのである。
さて、珍田、奈良、入江、澤田の4名いずれも昭和天皇の欧州外遊に供奉しており、新渡戸を囲んだ同窓会のような和やかな雰囲気に包まれていたことだろう。新渡戸は当時事務次長を務めていた国際連盟に関する話を中心に進講し、昭和天皇は米国の動向を問いかける。彼らに待ち受ける暗雲が漂い始めた頃でもあった。
昭和の戦争の出発点となった満州事変の翌32年、当時国際連盟の日本政府代表は松岡洋右(首席全権)、連盟理事長・長岡春一(駐仏大使)、佐藤尚武(駐白大使)の3名から成り、事務局長を務めていた澤田節蔵は代表代理となる。澤田は松岡の派遣を「わが国官界財界に顔がひろく、ことに当時実質上政権を把握していた軍部ともよく、政府としては彼を陣頭に立てて奮闘させようという考えがある」と見ていた。
その日の早朝、松岡の命令で起草した電信案を手にした書記官が、澤田に発電してもいいかと聞いた。その電信案は「代表部の総意として事ここに至って日本は連盟脱退のほかなし、政府は断然脱退の処置をとるべし」というものだった。
澤田はこの発信を中止させ3代表と澤田の4名で協議を行う。澤田は「日本が連盟を脱退することは自ら進んで世界の政治的孤児になることだ。」と主張し、この一大事に最後の決断はあらゆる情報を把握している政府が行うべきであり、政府も迷っているこの時に「出先機関がジュネーブの空気から指図がましいことをいうのは絶対に避けるべき」と言いたてた。
しかし、松岡は日本のとるべき道は脱退以外にないとして一刻も早く発するべきと主張する。結局澤田の主張は葬り去られる。会議終了後、「澤田さんは温和な人と思いこんでいたが、今の会議では実に熱烈強硬そのもので実に驚きました」と佐藤に言わしめた。
ブラジル大使を経て帰国した澤田は有田八郎外相の顧問として日独伊三国同盟も「ヒットラーのドイツと結ぶが如きは害多くして益なし」として強硬に抵抗している。この時同時に澤田が関与した「米国資本・満州北支誘導工作」が実に興味深い。ハリマン事件の教訓を生かした経済相互依存戦略が見出せる。