2008年02月18日

防火区画

===========法庫より抜粋===========

(防火区画)
第112条 主要構造部を耐火構造とした建築物又は法第2条第9号の3イ若しくはロのいずれかに該当する建築物で、延べ面積(スプリンクラー設備、水噴霧消火設備、泡消火設備その他これらに類するもので自動式のものを設けた部分の床面積の2分の1に相当する床面積を除く。以下この条において同じ。)が1500平方メートルを超えるものは、床面積(スプリンクラー設備、水噴霧消火設備、泡消火設備その他これらに類するもので自動式のものを設けた部分の床面積の2分の1に相当する床面積を除く。以下この条において同じ。)の合計1500平方メートル以内ごとに第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する準耐火構造の床若しくは壁又は特定防火設備(第109条に規定する防火設備であつて、これに通常の火災による火熱が加えられた場合に、加熱開始後1時間当該加熱面以外の面に火炎を出さないものとして、国土交通大臣が定めた構造方法を用いるもの又は国土交通大臣の認定を受けたものをいう。以下同じ。)で区画しなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する建築物の部分でその用途上やむを得ない場合においては、この限りでない。

 1.劇場、映画館、演芸場、観覧場、公会堂又は集会場の客席、体育館、工場その他これらに類する用途に供する建築物の部分

 2.階段室の部分又は昇降機の昇降路の部分(当該昇降機の乗降のための乗降ロビーの部分を含む。)で第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する準耐火構造の床若しくは壁又は特定防火設備で区画されたもの

2 法第27条第2項、法第62条第1項又は法第67条の2第1項の規定により準耐火建築物とした建築物(第109条の3第2号又は第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合するものを除く。)で延べ面積が500平方メートルを超えるものについては、前項の規定にかかわらず、床面積の合計500平方メートル以内ごとに同号に掲げる基準に適合する準耐火構造の床若しくは壁又は特定防火設備で区画し、かつ、防火上主要な間仕切壁を準耐火構造とし、小屋裏又は天井裏に達せしめなければならない。

3 法第21条第1項ただし書の規定により第129条の2の3第1項第1号ロに掲げる基準に適合する建築物とした建築物、法第27条第1項ただし書の規定により第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する建築物とした建築物又は法第27条第2項、法第62条第1項若しくは法第67条の2第1項の規定により第109条の3第2号若しくは第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する準耐火建築物とした建築物で、延べ面積が千平方メートルを超えるものについては、第1項の規定にかかわらず、床面積の合計千平方メートル以内ごとに同号に掲げる基準に適合する準耐火構造の床若しくは壁又は特定防火設備で区画しなければならない。

4 前2項の規定は、次の各号のいずれかに該当する建築物の部分で、天井(天井のない場合においては、屋根。第6項、第7項及び第9項において同じ。)及び壁の室内に面する部分の仕上げを準不燃材料でしたものについては、適用しない。

 1.体育館、工場その他これらに類する用途に供する建築物の部分
 2.第1項第2号に掲げる建築物の部分

5 建築物の11階以上の部分で、各階の床面積の合計が100平方メートルを超えるものは、第1項の規定にかかわらず、床面積の合計100平方メートル以内ごとに耐火構造の床若しくは壁又は法第2条第9号の2ロに規定する防火設備で区画しなければならない。

6 前項の建築物の部分で、当該部分の壁(床面からの高さが1.2メートル以下の部分を除く。次項において同じ。)及び天井の室内に面する部外(回り縁、窓台その他これらに類する部分を除く。次項において同じ。)の仕上げを準不燃材料でし、かつ、その下地を準不燃材料で造つたものは、特定防火設備以外の法第2条第9号の2ロに規定する防火設備で区画する場合を除き、前項の規定にかかわらず、床面積の合計200平方メートル以内ごとに区画すれば足りる。

7 第5項の建築物の部分で、当該部分の壁及び天井の室内に面する部分の仕上げを不燃材料でし、かつ、その下地を不燃材料で造つたものは、特定防火設備以外の法第2条第9号の2ロに規定する防火設備で区画する場合を除き、同項の規定にかかわらず、床面積の合計500平方メートル以内ごとに区画すれば足りる。

8 前3項の規定は、階段室の部分若しくは昇降機の昇降路の部分(当該昇降機の乗降のための乗降ロビーの部分を含む。)、廊下その他避難の用に供する部分又は床面積の合計が200平方メートル以内の共同住宅の住戸で、耐火構造の床若しくは壁又は特定防火設備(第5項の規定により区画すべき建築物にあつては、法第2条第9号の2ロに規定する防火設備)で区画されたものについては、適用しない。

9 主要構造部を準耐火構造とし、かつ、地階又は3階以上の階に居室を有する建築物の住戸の部分(住戸の階数が2以上であるものに限る。)、吹抜きとなつている部分、階段の部分、昇降機の昇降路の部分、ダクトスペースの部分その他これらに類する部分(当該部分からのみ人が出入りすることのできる公衆便所、公衆電話所その他これらに類するものを含む。)については、当該部分(当該部分が第1項ただし書に規定する用途に供する建築物の部分でその壁(床面からの高さが1.2メートル以下の部分を除く。)及び天井の室内に面する部分(回り縁、窓台その他これらに類する部分を除く。以下この項において同じ。)の仕上げを準不燃材料でし、かつ、その下地を準不燃材料で造つたものであつてその用途上区画することができない場合にあつては、当該建築物の部分)とその他の部分(直接外気に開放されている廊下、バルコニーその他これらに類する部分を除く。)とを準耐火構造の床若しくは壁又は法第2条第9号の2ロに規定する防火設備で区画しなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する建築物の部分については、この限りでない。

 1.避難階からその直上階又は直下階のみに通ずる吹抜きとなつている部分、階段の部分その他これらに類する部分でその壁及び天井の室内に而する部分の仕上げを不燃材料でし、かつ、その下地を不燃材料で造つたもの

 2.階数が3以下で延べ面積が200平方メートル以内の一戸建ての住宅又は長屋若しくは共同住宅の住戸のうちその階数が3以下で、かつ、床面積の合計が200平方メートル以内であるものにおける吹抜きとなつている部分、階段の部分、昇降機の昇降路の部分その他これらに類する部分

10 第1項から第4項までの規定による第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する準耐火構造の床若しくは壁(第2項に規定する防火上主要な間仕切壁を除く。)若しくは特定防火設備、第5項の規定による耐火構造の床若しくは壁若しくは法第2条第9号の2ロに規定する防火設備又は前項の規定による準耐火構造の床若しくは壁若しくは法第2条第9号の2ロに規定する防火設備に接する外壁については、当該外壁のうちこれらに接する部分を含み幅90センチメートル以上の部分を準耐火構造としなければならない。ただし、外壁面から50センチメートル以上突出した準耐火構造のひさし、床、そで壁その他これらに類するもので防火上有効に遮られている場合においては、この限りでない。

11 前項の規定によつて準耐火構造としなければならない部分に開口部がある場合においては、その開口部に法第2条第9号の2ロに規定する防火設備を設けなければならない。

12 建築物の一部が法第24条各号のいずれかに該当する場合においては、その部分とその他の部分とを準耐火構造とした壁又は法第2条第9号の2ロに規定する防火設備で区画しなければならない。

13 建築物の一部が法第27条第1項各号のいずれか又は同条第2項各号のいずれかに該当する場合においては、その部分とその他の部分とを第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する準耐火構造とした床若しくは壁又は特定防火設備で区画しなければならない。

14 第1項から第5項まで、第8項又は前項の規定による区画に用いる特定防火設備及び第5項、第8項、第9項又は第12項の規定による区画に用いる法第2条第9号の2ロに規定する防火設備は、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める構造のものとしなければならない。

 1.第1項本文、第2項若しくは第3項の規定による区画に用いる特定防火設備又は第5項の規定による区画に用いる法第2条第9号の2ロに規定する防火設備次に掲げる要件を満たすものとして、国土交通大臣が定めた構造方法を用いるもの又は国土交通大臣の認定を受けたもの
  イ 常時閉鎖若しくは作動をした状態にあるか、又は随時閉鎖若しくは作動をできるものであること。
  ロ 閉鎖又は作動をするに際して、当該特定防火設備又は防火設備の周囲の人の安全を確保することができるものであること。
  ハ 居室から地上に通ずる主たる廊下、階段その他の通路の通行の用に供する部分に設けるものにあつては、閉鎖又は作動をした状態において避難上支障がないものであること。
  ニ 常時閉鎖又は作動をした状態にあるもの以外のものにあつては、火災により煙が発生した場合又は火災により温度が急激に上昇した場合のいずれかの場合に、自動的に閉鎖又は作動をするものであること。

2.第1項第2号、第4項、第8項若しくは前項の規定による区画に用いる特定防火設備又は第8項、第9項若しくは第12項の規定による区画に用いる法第2条第9号の2ロに規定する防火設備次に掲げる要件を満たすものとして、国土交通大臣が定めた構造方法を用いるもの又は国土交通大臣の認定を受けたもの
  イ 前号イからハまでに掲げる要件を満たしているものであること。
  ロ 避難上及び防火上支障のない遮煙性能を有し、かつ、常時閉鎖又は作動をした状態にあるもの以外のものにあつては、火災により煙が発生した場合に自動的に閉鎖又は作動をするものであること。

15 給水管、配電管その他の管が第1項から第4項まで若しくは第13項の規定による第115条の2の2第1項第1号に掲げる基準に適合する準耐火構造の床若しくは壁、第5項若しくは第8項の規定による耐火構造の床若しくは壁、第9項本文、第10項本文若しくは第12項の規定による準耐火構造の床若しくは壁又は第10項ただし書の場合における同項ただし書のひさし、床、そで壁その他これらに類するもの(以下この項及び次項において「準耐火構造の防火区画」という。)を貫通する場合においては、当該管と準耐火構造の防火区画とのすき間をモルタルその他の不燃材料で埋めなければならない。

16 換気、暖房又は冷房の設備の風道が準耐火構造の防火区画を貫通する場合(国土交通大臣が防火上支障がないと認めて指定する場合を除く。)においては、当該風道の準耐火構造の防火区画を貫通する部分又はこれに近接する部分に特定防火設備(法第2条第9号の2ロに規定する防火設備によって区画すべき準耐火構造の防火区画を貫通する場合にあつては、法第2条第9号の2ロに規定する防火設備)であつて、次に掲げる要件を満たすものとして、国土交通大臣が定めた構造方法を用いるもの又は国土交通大臣の認定を受けたものを国土交通大臣が定める方法により設けなければならない。
 1.火災により煙が発生した場合又は火災により温度が急激に上昇した場合に自動的に閉鎖するものであること。
 2.閉鎖した場合に防火上支障のない遮煙性能を有するものであること
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2008年02月15日

構造耐力上主要な部分

建築基準法施行令第1条第3号に規定されている、建築物の部分のこと。
建築物の荷重を支え、外力に対抗するような建築物の基本的な部分のことである。


正確な定義は次のとおりである。」(建築基準法施行令第1条第3号)
基礎、基礎ぐい、壁、柱、小屋組、土台、
斜材(筋かい、方づえ、火打材その他これらに類するものをいう)、
床版、屋根版又は横架材(はり、けたその他これらに類するものをいう)



建築物の自重若しくは積載荷重、積雪、風圧、土圧若しくは水圧又は地震その他の震動

若しくは衝撃を支えるもの

をいう。

よく似た用語として
建築基準法第2条第5号では「主要構造部」という用語を定義している。
この「主要構造部」とは「壁・柱・床・はり・屋根・階段」のことである。
ただし、構造上重要でない最下階の床、間仕切り用の壁、間柱、つけ柱、局所的な小階段などは「主要構造部」から除外されている。

具体的には次の部分が「構造耐力上主要な部分」に該当する。
1)在来工法の木造住宅の場合
   基礎に関するものとして「基礎」「基礎ぐい」、
   軸組に関するものとして「土台」「壁」「柱」「斜材(筋かいなど)」「横架材」「床版」、
   屋根に関するものとして「小屋組」「屋根版」が、「構造耐力上主要な部分」に該当する。

2)鉄筋コンクリート造の場合
  「基礎」「基礎ぐい」「壁」「床版」「屋根版」が「構造耐力上主要な部分」に該当する。

このような「構造耐力上主要な部分」については、
住宅の品質確保の促進等に関する法律(品確法)で
新築住宅に関する10年間の瑕疵担保責任が義務付けられている。
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2008年02月06日

「戦い」を支えたのは一級建築士としての誇り(抜粋)

九州企業特報より抜粋
http://www.data-max.co.jp/2008/02/6_7.html

「戦い」を支えたのは一級建築士としての誇り

建物は「人」が造り「人」が住む | 建設業界への提言
[特別取材]

[プロフィール]
仲盛 昭二 (なかもり しょうじ)                    
協同組合 建築構造調査機構 一級建築士事務所
参事(技術担当)
1951年2月8日、福岡市博多区生まれ。
九州産業大学卒業後、日本建設(株)に入社。
1978年、独立し、昭和設計事務所を創業。
1980年2月、設計工房サムシング(株)を設立し、同社代表取締役に就任。
2002年9月、サムシング廃業。
その後の現在に至るまでの詳細は、本文にて紹介。


 建設業界への提言として、2005年11月に起こった姉歯秀次被告による構造計算書偽装問題の余波を受け、「第2の姉歯」と揶揄されて2年間もの裁判を余儀なくされ、現在もなお孤軍奮闘している仲盛昭二氏(元(株)サムシング代表)の生き様とその思いを伝えていきたい。本題に入る前に、当シリーズの意義を説明しておく必要があるだろう。

 現在、日本の建設業界はさまざまな問題を抱えている。とくに、業界に最も悪影響を与えた問題としてよく挙げられるのが「改正建築基準法」。この法改正は、何も確認申請が遅れて建物が造れないという問題だけではない。それにより、業界の景気が悪化しているのはもちろんだが、さらに深刻なのは、建築の担い手(施工に携わる職人や構造設計士などの技術者も含めて)の数が減っているということである。

 建物を造るのは「人」である。その「人」が業界に魅力を感じなくなったり、もしくは不透明な先行きに不安を感じて業界を離れたりすれば、残った人への過重な負担や若手への技術伝承の断絶によって、全体的に製品の質が落ちてくるのは自明の理である。

 そうなれば、なおさらそのリスクを「住民」が背負うことになるのである。つまり、「住民」のための法改正が、結果的にはリスクを「住民」に押し付けることになってしまうのだ。

 そもそも、なぜこのような状況になったのか。それは周知の通り、姉歯秀次・元一級建築士による構造計算書偽装問題が発端となっている。この問題は当時、建設業界・建築行政のさまざまな問題を浮き彫りにした。これ自体は大きな罪であるし、このような事態を引き起こす温床が業界・行政双方にあったのも事実であろう。

 そして、ここで国交省や福岡市がとった措置によって、仲盛氏が「第2の姉歯」というレッテルを貼られてしまうのである。

 我々は、この「第2の姉歯」と言われた仲盛氏の生き様を描くことで、孤軍奮闘する氏へのささやかな支えになればという気持ちもあるが、むしろ、今の日本の建築行政が抱える問題を、姉歯事件とは異なる視点から浮き彫りにし、「住民の安全」とは何か、ということを改めて問い直すことが主たる目的である。

 それは仲盛氏も望むことで、「私のことはともかく、早くこの問題を片付けて、住民の方たちを安心させてあげたい。また、今の行政はいろいろな問題を抱えている。それを皆の力を合わせて少しでも良くしていきたい」と、その率直な気持ちを語った。
                          2008年01月30日 10:07 更新



 仲盛氏は1951年2月8日に生まれた(実はこの誕生日が、仲盛氏にとって一生忘れられない日と重なるのだが、それは後述する)。九州産業大学卒業後、日本建設(株)に入社。78年(27歳)で独立し、昭和設計事務所を創業。80年2月(29歳)に設計工房サムシング(株)を設立し、同社代表取締役に就任した。

 構造設計を生業としたきっかけは、「自分はデザインには向いていなかった。だから、何の迷いも無く構造設計を選んだ」からで、独立した動機は「設計事務所として大成したい、人に使われたくない」という思いが強かったからだという。

 もちろん、はじめは仕事がなく、非常に苦労していたようだ。氏が言うには、1件1件、設計事務所やゼネコンに対して営業してまわることに対し、恐怖を感じるようになっていたという。
 
 しかし、昭和60年代には建築物が急激に増えたこともあって、同社は下請ながら急速にその業容を拡大していった。そのきっかけは、構造計算・図面作成・営業をそれぞれ分業制にしたことだった。

 40歳(91年)で春日市に引っ越したときの社員は、約30名だった。当時はバブル期と重なっており、仕事が無条件に入ってきていた。それを捌くために増員を優先した結果、45歳(96年)頃になると、社員も55名に増え、最高で60名を抱えるようになっていた。これだけ人員を抱えている設計事務所は、全国的にも珍しかったそうだ。

 こうして同社は、構造設計の分野では福岡地区でシェア70%を確保することに成功した。だが氏は、ある過ちを犯したことがきっかけで経営が傾き、経営を続ける気力を失ってしまい、ついに2002年9月の廃業に至ったと回顧する。

 その原因のひとつは、いろいろな商売に手を出したこと。とくに当時は、不動産物件を10件以上も購入していた。「不動産は、大手マンション会社から強制的に現金で買わされていた。その見返りに仕事をやるという、甘い誘いにのって。私は、仕事のためのお付き合いと思って買っていたが、結局仕事はもらえなかった。従業員が増えすぎて、仕事をとるのに躍起になっていた」と氏は反省する。

 もうひとつは、どんぶり勘定による資金繰りの悪化。「不渡り手形をつかまされたり、安易に手形に頼りすぎたりした。民事再生法が施行された直後で、それで助かったとは言え、これは大罪だ。罪悪感は強く残っている」と悔やむ。

 「これからは仕事をすることで償っていきたい。自分の知識や経験、そしてノウハウを後世に残していきたい」と、別の設計事務所で雇われるかたちで仕事を続けていた仲盛氏。そこに突然、あの姉歯事件が起き、「第2の姉歯」として槍玉にあげられ、2年間の戦いの日々を送ることになったのである。

                          2008年01月31日 09:55 更新




 すべての事の発端は、2004年6月に福岡県篠栗町にある「エイルヴィラツインコートシティ門松駅前イーストサイド」の管理組合が、「設計や施工にミスがあり、構造上の安全性が確保されていない」として、販売元の作州商事(福岡市)、施工主の香椎建設(同)、設計者のニューアート建築設計事務所(同)を福岡地裁に提訴したことである。建替費用や代替住居確保費用など、総額約10億8,000万円の支払いを求めた。

 そのような折、05年11月に姉歯事件が起こった。その直後、同じマンションの別棟「ウエストサイド」の管理組合が、構造計算のミスを理由に、先の三者に加えて、構造計算を担当していた仲盛氏に対して建替費用など約9億2,800万円の損害賠償請求訴訟を起こした。

 ひとつ指摘しておきたいのが、「イーストサイド」裁判については構造計算そのものがメインの問題ではなかったが、姉歯事件後の「ウエストサイド」裁判では、突然、構造計算がクローズアップされたことである。

 さらに、構造計算書偽装問題の一連の調査として、国交省は姉歯被告と関わりがあった木村建設の施工物件の構造再計算を行なうよう、各自治体に通達。これを受けて、福岡市も調査に乗り出した。

 06年2月3日、仲盛氏が以前経営していたサムシングが構造計算を行なった賃貸共同住宅4件中3件について、再計算を依頼されていた(社)日本建築構造技術者協会(JSCA)から市に対して、偽装があったと考えられると伝えられた。

 これを受けて06年2月7日、仲盛氏は福岡市に呼ばれて事情聴取をされた。その際、福岡市側から「お互いの見解をすり合わせてから発表します」という約束をされていた。

 しかし翌8日、何の前触れもなく突如「仲盛の構造設計に問題がある」と福岡市が公表した。「あの日は誕生日だったこともあり、一生忘れられない日になった。今考えれば、あれは国交省の指示だったのだろう。木村建設の物件は、我々が直接受注して手掛けたものではなかったが、無理やり姉歯問題とリンクさせられた」と氏は述懐する。

 さらに、「問題が起こってしまった以上、設計が悪いか施工が悪いかという話になるが、私の構造計算は間違っていないという自信がある。やはり施工に問題があったとしか考えられない」と主張する。

 こうして、仲盛氏は福岡市への提訴を決意し、誕生日という運命的な日が、仲盛氏の孤独な「戦い」の日々の始まりとなったのである。

                          2008年02月01日 10:19 更新




 事件から2カ月後の06年4月、仲盛氏は弊社インタビューに対して「非常に不快だ。姉歯氏とはしていることが違う」、「構造計算がここまでスポットを浴びるとは誰も思っていなかった」、「反論を2回したが、何回やっても議論がかみ合わない」と、不満をにじませていた。

 あれから2年。話を聞く限り、状況が改善しているようには思えない。「昨年10月ごろ、反論の場を与えられるというのでその場に行ったが、担当者が誰もいなかった。2年間も、当事者の意見を直接聞こうとしないのはおかしい」と、その怒りは収まらない。

以前に県議会でも、一連の事件について追究してもらったそうだが、指定構造計算適合性判定機関(以下:適判)から理論攻めにされたら引き下がるしかない、という状況だそうだ。

 仲盛氏は、何度か反論の場に出席させてほしいと訴えたが、「国交省の命令で、来てはダメと言われていた」そうだ。2年前の2月7日に公開討論を申し込んだ際も、出席メンバーすら教えられなかった。「当時私が話し合いに参加できていれば、今のように裁判が長引くような状況にはならかっただろう」と、行政の対応のまずさを指摘した。

「もし公開討論が実現するなら、大学教授でも専門家でも誰でも良いから、なるべく多くの人に参加してほしい。そして、ぜひ住民の皆さんにも参加していただきたい。討論でも裁判でも、私は絶対に負けない自信がある。法や論理といった知識では勝てないかもしれないが、30年間で15,000件を手掛けて身に付けた経験と知恵があるから」と、氏は自分の意見を公開する場が必要だと訴える。

「業務上のミスがあれば、素直に謝るつもりだ。私はこの問題が出たとき、他に波及しないように全部自分のところでせき止めていた。ある意味、行政のミスをカバーしていた面もある。それなのに、行政に嫌われる筋合いはない。行政には現場を見てほしい」と氏は語る。

                          2008年02月04日 10:42 更新




 先日、弊社のもとに、仲盛氏から1通のファックスが届いた。それにはこう記されていた。「『構造設計者:協同組合建築構造調査機構 仲盛昭二』が構造設計を行なった物件が、福岡市に建築確認を申請されました。この物件が、平成19年12月14日に福岡市より建築確認を頂きました」。

 全国的に建築確認件数が減っているなか、しかも行政と戦い続けている氏にとって、このたった一件の確認申請はどれだけ重いものだっただろうか。

 氏は、「国交省のやり方は、物件を無作為に抽出し、たまたま書類上ミスがあった物件を取り上げて、構造上問題がありとしてしまうものだ。早くすべてを終わらせて、住民の方々に安心してもらい、自分もゆっくりしたい」と、住民第一であるという想いを語る。

 しかし、「福岡県や市が国交省の言いなりになってしまっており、なかなか決着がつかない。もはや個人的バッシングに近いものがある。これは人権問題と言っても、過言ではない。12月14日の建築確認の件にしても、県から市に『確認を下ろすな』という要請があったようだ。しかし市は、『法的に問題がない』という理由で、ようやく確認を下ろしたようだ」と、行政の構造的問題に対して怒りをあらわにしていた。

 仲盛氏は、07年6月20日に施行された改正建築基準法についても言及した。「法の内容で変更があったのは、たった2点のみ。そのほかは何も変わっていない。指定確認検査機関と適判のダブルチェックになったが、ことごとく確認が下りないという事態が起こっている」と言う事だ。

 しかもこれは、「適判の主観によって決まるというから驚きだ。事前審査は何のためにあるのか。日本ERIの関係者も、適判を訴えてほしいと言っているぐらいだ。しかし、彼らは立場上、表立ってそのようなことは言えない」と、検査機関内部にも問題が内包されていると指摘した。

 さらに、「業者が役所に直接文句を言うと、銀行融資が止まってしまう恐れがあるため、なかなかそういう声が上がらない。現場では、水面下で生々しい対応が繰り広げられている」と、建設業界の構造的問題についても言及した。

                          2008年02月05日 10:23 更新




 改正建築基準法の悪影響については、すでに各所で言及があるように、行政があまりにも現場を知らなさ過ぎることが最大の要因である。構造計算書問題で渦中の人物であった仲盛氏の声が届かないのも、こうした行政の一連の対応を見ている限り、至極当然である。

 「大体、これまでの基準で行けば、確認が下りないはずがない。今の状況を見ると、これまでの物件はほとんどが不適格ということになる。福岡でも、このツケはエンドユーザーにいく。法改正には明確な基準が無い。福岡市は記者会見で公表すべきだと思う。この国は異常だ。もう一度、誰かが提訴しないと収拾がつかないくらいの事態となっているのではないか」。

 こう感じているのは、何も氏1人だけではないだろう。建設とそれに関わる周辺の業界の悲鳴は、すでにあらゆるところで出ている。

 また、「第2の姉歯」と揶揄された氏は、自身が苦境に立たされているにも関わらず、業界の将来を心配していた。「私が知っているだけでも、すでに6人が廃業した。60%〜70%の職人が、来年には廃業したいと言っている。とくに、技術と知恵が熟練した50代が次々にやめていくのは、業界にとって非常に痛手だ。収入が減り、意欲をそぎ落とされ、皆が仕事に魅力を感じられなくなっている証拠だ。建設の需要はまだまだあるのに、もったいない話だ。また今年からは、本格的に建設関連業界は大不況・大混乱に陥るだろう」と危惧していた。

 氏は現在、和解に向けて突き進んでいる。福岡市に対して、風評被害を受けたとして裁判を起こし、07年9月に棄却され、控訴の構えを見せていたが、「10月に控訴を取り下げた。しかし、疑念は払拭したつもりだ。裁判は今年で終わらせる。和解して、住民を早く楽にしてあげたい。そういう意味で、今年は勝負の年だ」と意欲を燃やす。

 片道切符のつもりで真剣勝負をするという仲盛氏。「自分は間違っていない」という絶対の自信があったからこそ、2年間も孤独に戦い抜けたのだろう。今年、この戦いに終止符は打てるのだろうか。

                          2008年02月06日 10:19 更新



 これまで、氏は「孤軍奮闘」「孤独な戦い」をしてきた、と記してきたが、それは実は意図的な面もあったようだ。

 そもそも、今回の裁判で問題となっていたのは「サムシングの構造設計」である。それならば、仲盛氏自身ではなく、元サムシング従業員がミスをしていた可能性も否定はできない。

 それについて氏に問うと、
「たしかにサムシングは分業をしており、私が直接構造計算に関われた時間はそれほどなかったが、最終チェックはすべて自分の目で行なっていた。やはり構造計算自体にミスがあったとは思えない。それに私は当時の社長だ。責任転嫁を他の人にするつもりはないし、そもそも社長はすべてを負うリスクがある」
 と、経営者としてのあるべき姿を説く。

 では逆に、元サムシングOBと協力して戦っていくという選択肢はなかったのだろうか。それについて氏は、
「もしOBが参加したら、意見が混乱し、責任のなすりつけ合いになる恐れがある。それよりもむしろ、私が元経営者として、自身の考えが社の一貫した意見だと訴え続ける必要がある」
 と述べる。

さらに、
「たしかに普通ならOBと打ち合わせをして一致団結、という方策を採るだろうが、あえて自分から関係を切っている。もちろん、OBからの協力要請もあった。しかし、それは気持ちだけ受け取っておきたい」
 と、あえて自ら元従業員に火の粉がふりかからないように、孤独という道を選んだのだと言う。

 氏がこのような方策を採ったのには、以上の理由があるのだが、実際にOBに火の粉がふりかかっている場面に遭遇したらしい。
「あるOBが独立して設計事務所を始めたものの、あの事件(姉歯事件後の「エイルヴィラウエストサイド」裁判)のあと、元サムシング社員だというだけで、いろいろな銀行から実際に融資を断られている。金融機関の間で、そうした個人情報が出回っているようだ」

 こうした現状もあって、氏はあえて孤独の道を選んだ。しかし、そこには多くの人の協力があったのも間違いない。
「私は家族をはじめ、いろいろな人に助けられたからこそ、今でも戦うことができている」
2008年02月07日 11:03 更新


 これまで、仲盛氏の波乱万丈な半生を記してきたが、家族のことが気になり話を聞くと、「妻には、『一切テレビは見ないから大丈夫よ。あなたの考えていることは表情を見て分かるわ』と言われた。また、息子に『学校で何か言われてないか』と聞いたら、『お父さんが正直に話してくれているから大丈夫』と言われた。私は、家族に対して、真実をすべて正直に話していたから、家族にも支えられた」。

 また、「去年9月に判決が言い渡された、福岡市に対する300万円の損害賠償請求訴訟(※)でも、結果的には原告の請求棄却で敗訴だったが、ある恩人に紹介された弁護士の先生が、『仲盛さん、これは良い判決事例になるよ』と言われ、控訴取り下げを決意した」と、ある弁護士との出会いが、もうひとつの「戦い」に終止符を打つ決意をさせたと語る。 

(※)サムシングが構造計算を行なった建築物が、福岡市が強度不足だと公表したことで、風評被害で多大な損害を被ったという事由による訴訟。裁判所は、「公表の数カ月後に安全宣言が行なわれたことを考慮すれば、福岡市側も安全性を確かめてから公表する余地があった」と認めた。
 氏は、「戦い」を通じて得たもの、そして「戦い」が生み出したものについて、次のように語った。

 「まず、絶対に逃げたらダメだと感じた。逃げなかったからこそ、家族は支えてくれたし、良い人にもめぐり会えた。今は敵半分、味方半分だが、味方が半分もいてくれれば戦い抜くには十分だ。
 この問題は、私が技術屋だからこそ対処できた。構造計算は70%が経験、30%が知識の経験工学だ。行政はどうしても実務不足だから、知識はあるが知恵や経験値がない。今回の裁判を通じて、行政側の構造計算技術が向上したのは歓迎すべきことだと思う。
 ただ、行政の窓口の人もかわいそうだ。人のアラ探しの仕事になり、どうしても優秀な人が集まりにくい。また、より問題なのは適判制度だ。私は制度そのものには賛成だが、昨年6月20日以降は、とくに適判員が主観で確認を下ろさないというケースが目立って増えてきた。これは皆で声を上げなければ、解決しないだろう。
 これまで構造設計士は個人営業が多かったが、最近では構造設計士の絶対数が減っている。これは大きな損失だ。また、確認申請が厳しくなったせいで、たとえばゼネコン側が施工段階で起きた問題を隠蔽する体質になりつつあるというような話も聞いている。なぜなら、問題があれば工事を長期間中断して再確認する必要があるからだ」。
 
 こうした建設業界の構造的問題は、行政・民間の双方がこれから考えていくべき喫緊の課題であろう。以上の仲盛氏の言をもって、「建設業界への提言」の締めくくりとしたい。
氏の半生を語り尽くすことはできていないかもしれないが、「私は命に代えてでも、最後まで一級建築士としての誇りを持って『戦い』抜き、和解を勝ち取って住民の方々を安心させたい」という想いは伝えられたかと思う。

 最後に氏は、これから構造計算に関わろうとする若い世代に対して、次のように述べた。

 「今の若い人たちに言いたいのは、構造の全体を把握して欲しいということ。最近は細かい数字にこだわりすぎて、大局を見ることができない人が増えている。ただ細かい数字ばかりを追うのではなく、構造がどのように成り立っているのか、知識はもちろん、もっと知恵や経験を身に付けて、総合的な構造計算ができるようになってもらいたい」。

おわり
2008年02月08日 11:32 更新
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2007年10月05日

九鬼周造

松岡正剛 千夜千冊「いきの構造」より転載

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 碁敵の別役実に勧められて読んだとき、つまらなかった。こんなことで「粋」が説明されてたまるもんかよと、すぐに思った。早稲田小劇場が生まれる前後のころである。
 いまとなってはそのときの読感を正確に思い出せるわけではないが、薄っぺらなんじゃないかとか、和の美学の頓珍漢のほうに入りこんで理屈っぽいという感じだったのだろうと憶う。それまでぼくが生意気に感じてきた「粋」とは違うのだ。
 それがいつだったか、九鬼の『偶然の諸相』を読んで、格段の新鮮なものを感じた。あいかわらず定言的偶然とか因果と目的によって偶然を分類しているところなど、少しうるさいのだが、ここまで「偶然」にこだわることが一筋縄ではないというのか、只事ではないと気がついた。
 そこで、岩波の全集をとりよせてあれこれ拾い読んでみると、おお、おお、なんだ、胸が詰まるほどに、いい。最初に『風流に関する一考察』や『日本詩の押韻』を読んだのだったと思うが、これはどうも日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたことにさしかかっている。
 気持ちがしゃんとした。
 ふたたび『「いき」の構造』に戻った。目に活字が入ってくるところがまったく違っていた。ぼくは何も読んではいやしないのだと愕然とした。
 たとえば着物の「抜き衣紋」。本式ではなくちょっと略式に結った「髷ぐあい」、舌ざわりなどの「さはり」‥。こういうものが粋の意味体験をつくっていて、それが心の糸にふれるということ、だからこそ三味線の一の糸の「さはり」が粋に聞こえてもくるということ‥。
 そういうことか。
 こんなことが書いてあるとは思わなかった。そしてそのうえで、ぷいっと「赤勝の京紫よりも、青勝の江戸紫のほうが“いき”と看倣される」なのである。うーん、京紫と江戸紫のちがい、ねぇ。
 もっと感服したのは、これはもっとあとになって気がついたのであるが、浮世絵で粋を持ち出すのなら鈴木春信は欠かせないだろうに、九鬼は春信の「いき」については触れてはいない。どうしてだろうと思っていたところ、草稿にはちゃんと春信のことを書いていたと安田武が言っていた。
 ということは、本番で春信をきっぱり捨てたのだ。こういうことをする人だったのである。

 これでは何も読めていなかったと言われても仕方がない。
 いつもこういう体験をするのも困ったことだが、一冊の本というもの、読み方ひとつでどうにもならなくなってくる。帯の締め方、筆の持ち方、「かな」か「けり」かの選び方なのだ。『「いき」の構造』については、ぼくはあきらかに失敗の巻。もっとも、だからこそ再読が身に染みた。
 白状すれば、ぼくにはそのころもっと決定的な欠陥もあった。東京には来ていたものの、「江戸」がほとんどわかっていなかったのである。たとえば「婀娜(あだ)は深川、勇みは神田」なんて、そんなカッコいい風情があつたことが、まったく見えていなかった。
 実は「浮世」も「浮世絵」もわかっていなかった。
 さきほどの春信云々を引きとっていうのなら、『「いき」の構造』には「意気地や媚態の霊化が粋なのである」と書いてあるところがあるのだが、春信のあの時代の絵では、たしかに浮世絵のもつ意気も媚態も、まだ霊化までには進んでいなかったのだ。
 それにしても、媚態の霊化、なのである。
 こういうことがわかるまでに、ざっと二〇年くらいの損をした。とくに九鬼がパリで詠んだ「ふるさとのしんむらさきの節恋し、かの歌沢の師匠も恋し」という歌が、なんともせつないと思えるにいたるまで――。でも、それが損じゃなかったのだ。

 では、あたらためて九鬼周造を評価しておきたいのだが、この人はよほどの人である。異例の人である。
 まずわかりやすくは、おおざっぱな文化地理上のことだけをいうと、東京は芝に生まれて江戸の花柳界や俗曲によく遊んだうえで、ドイツではリッケルトやフッサールやベッカーに影響をうけ、フランスではベルグソンに学んで、その文化の風土にひそむ感覚、たとえば“シック”を哲学したのち、天野貞祐や西田幾多郎に誘われて京都帝国大学に招かれ、その後はずっと京都に暮らした。二度目の夫人は祇園の芸者である。
 ようするに九鬼は、「江戸の鉄火」と「ヨーロッパの形而上学」と「京のはんなり」を、その土地からもその言葉からも吸いこんでいた。

 次は血の遍歴のこと。
 周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一で、近代日本の最初の文部官僚であって、最初の駐米特命全権公使だった。フェノロサと岡倉天心の東京美術学校の開設を後押した。
 母は祇園出身の星崎初子(はつ・波津)。アメリカ滞在中にその初子が身ごもったので、隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、日本で出産できるようにはからった。けれども横浜までの船旅はあまりに長い。どうやら二人は交わるようになり、これがスキャンダルとして発覚し、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われた。
 もっともそれがため天心は孤立しながらも奮起して、大観・春草らと日本美術院をおこすのだが、この事件によって九鬼夫婦は別居する。そのスキャンダルの渦中で生まれた周造は、幼年期を天心に“父”を感じて育っていった。母の初子はやがて発狂、精神病院に入っていく。

 さらに九鬼その人の境涯について言っておく。そのほうが九鬼のいう「いき」がよくわかる。今度は知の遍歴だ。
 日露戦争のさなか、九鬼は一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初は植物学をめざしていたのだが、やがて哲学に向かい、東京帝大の哲学科に入る。途中、キリスト教の洗礼をうけ、岩下壮一の妹に痛恨の失恋をして、大学院に進んでいく。卒業論文がすでに九鬼らしい。名付けて「物心相互の関係」というものだった。
 しかし、大学院は途中で放棄、九鬼は颯爽とハイデルベルク大学に留学して、リッケルトや新カント派に師事をする。ところがその哲学があまりに「同一性」を確信しすぎていることに苛立って、フランスへ飛んでサルトルにフランス語を習い、かつベルグソンを知ると、直観的な純粋持続の可能性こそ思索を深めるものだと了解して、むしろ「異質性」の重要性に向かうようになる。

 ヨーロッパで九鬼がしきりに考えたことは、「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった。
 「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚、「恋しさ」は対象の欠如によって生まれる根源的なものへの思慕である。これらはすなわち「異質性」への憧れを孕んでいる。つまりは清元なのである。
 九鬼はそのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり、ついに東洋的な「無」の大切を知る。
 ふたたびドイツに戻ってハイデガーをしばしば訪れるようになるのは、この大切な「無」をめぐる東西の橋梁を求めてのこと、このあたりから九鬼には何かのミッションが芽生えていた。

 九鬼はこうして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっていることに深い関心を寄せた。
 では、どうすれば生きられるのか。何かに出会う必要がある。出会ってどうするか。恋をする。どのように恋の相手に出会えるか。そして恋だけを持続できるのか。そんなことばかりを考えた。こんな思索がのちにやがて、ぼくが瞠目した「偶然性」の問題にとりくむあの九鬼周造になっていく背景になっている。




 しかしここまでのことは、九鬼周造という一個の存在が「二人の父のあいだ」と「不在の母」によってこの世に投げ出されていたという「血の事情」を、どこかで暗示するような「知の行方」そのものだったように思われる。

 8年におよんだヨーロッパの日々を終えて日本に戻った九鬼は、いまのべたように、「寂しさ」を本質的に抱えた者こそが、その喪失感覚がゆえに何かに出会うことで、きっと新たな異質の快感を得るのではないかという期待をもちはじめる。
 その期待の思いを結実させようとしたのが、帰国後1年にして書きあげた『「いき」の構造』なのである。どうだろうか、これで何が「いき」になったのか感得できるのではないだろうか。
 そもそもヨーロッパでは、哲学においてすら、恋愛の基底に自己同一性や自己発見をおいている。せっかく「無」に到達したハイデガーの哲学ですら西欧の論理に邪魔をされ、来たるべき相手を求められないものになっている。
 そこでは美の堪能が塞がれている。
 九鬼はそれがおかしいと考えていた。男女の関係はもっともっと自由でなければならないのではないか。そこからはもっと新たなものが創発してもよいのではないか。そう考えた。それが見えれば、恋愛によって精神と肉体を分断する必要はなく、結婚と結びつける必要もない。
 では、その美の堪能をどこに求めるべきか。それでいて「無の堪能」にもなるものを、では、どこに求めるか。
 日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。九鬼の新たな哲学は、いや存在学は、こうして一気に「婀娜な深川、勇の神田」に向かっていく。

 九鬼が持ち出した「いき」は、既存の男女の関係を超越する自由のための根拠の概念であり、そのアクティヴィティだったようだ。だから九鬼は、「いき」は恋愛をさえ越えるものではないかと考えていた。
 この結論は、かなりおもしろい。「いき」がそういうものなら、ぼくだって粋がりたい。けれども多少残念なことに(そして、そこが最初にぼくが感じた『「いき」の構造』の読感印象だったのかもしれないが)、九鬼の「いき」論は“論理”であろうとしたそのぶん、どうも「いき」の本来からずれていったようにも見える。ハイデガーだって、ヘルダーリンの詩には「無」と「美」の両方を見いだしていたはずなのだ。
 ただしすぐさま付け加えなくてはならないが、九鬼その人は「いき」の何たるかを、これ以上のかたちでは身につけるのは不可能であろうとおもうほど、身につけていた。けっして論理で生きている人ではなかったのである。
 そこが哲学者としての九鬼周造が「異例の人」であったという理由になってくる。

 さて九鬼の言葉によると、「いき」の契機は「媚態」「意気地」「諦め」によって成立しているという。
 それらは、わが国の道徳的理想主義と宗教的非現実性によって支えられ、前者は武士道によって、後者は仏教によって育まれてきたという。九鬼はこの見方にもとづいて「いき」の説明に緻密に入っていこうとしてしまう。
 先にも書いたように、九鬼にとっては人間が「自己」であるのは「寂しさ」や「恋しさ」のせいである。けれどもそのような自己はいまだ「一元的の自己」であって、それを脱するには異性との出会いによって二元的な関係に入らなければならない。
 それを九鬼は「可能的関係」とよぶ。
 この可能的関係は、当初はきっと互いの「媚態」のうちに予想しあったものである。もし、両者が媚態を感じつづけ、可能的関係を持続できれば、人間はかなり自由になれるはずである。
 しかし、ここで異性との「合同のこと」を求めすぎると、そこから媚態がたちまちなくなっていく。そこで媚態をぎりぎりにさせつつ、共同的な二元関係を感じあっていくには、いくら男女が快楽を交わそうとも、そこには適当な「距離」が必要になる。この媚態と距離との両方をキリリと表象しているのが、どうやら「いき」なのだ。
 わかったような、虫のいいような、男女の身体性を度外視したような、いかにも男っぽい説明に聞こえるのだが、しかしこれらがそもそも「寂しさ」を決定的な端緒として生じていることに気がつくと、やはりこの説明には初期の九鬼周造がまるごと表出されているということになる。

 次の「意気地」は、一言でいえば媚態のテンションを持続させ、距離をおいても媚態が朽ちないために、そこにさらに磨きをかける「心の強み」のことをいう。こう説明している。

 「意気地」は理想主義のもたらした心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。

 この「心の強味」としての意気地は、おそらく養って絞って削って身につくものだろう。だから九鬼は、日本においては意気地が生まれてきたのは武士道によっていると見た。
 もっとも九鬼のいう武士道は、新渡戸稲造や奈良本辰也が解説してきた武士道とはずいぶん異なっている。献身や礼儀の武士道ではなくて、とうてい実現することのない理想を求める心意気を武士道とよんだ。そこを九鬼は、「無際限」の中に「真無限」を求めよ、というふうに書いた。
 けれども男女のあいだに、こんな武士道を重ねていくなんて、これはよほどのことである。まず、できまい。そこで九鬼は、むしろ「いき」の振舞や「いき」な存在をまっとうしようとする心意気こそが、意気地をつくっていくとみなしていった。ふつうは、これを「はり」(張り)という。
 かくて「いき」を心意気にしつづける最後の契機として、九鬼は「諦め」を持ち出した。
 これは諦念というよりも「恬淡無碍の心」というもので、意気地や張りの対極にありながら、それを対角線で重ねるものである。それゆえにこそそこを、大胆にも「諦めと意気地とは、無力と超力として、唯一不二」とも書いてみた。つまり二つは反しあうようでいて、どこかがつながっているひとつの覚悟というものなのだ。そうそう、春信をきっぱり諦めるのも、張りのうちなのだ。

 エッセンシャルには、『「いき」の構造』の構成要素はこういうものなのだが、こんなぼくの拙(つたな)い要約でもなんとなく予感ができるだろうように、このような「論理」だけでは、なかなか「いき」は説明しきれない。
 九鬼もそれは重々わかっていて、そこで随所に具体例を入れていく。それが抜き衣紋や江戸紫の例だった。しかしぼくが読み返してさらに気がついたのは、「いき」を「苦界」(くがい)と結びつけていること、そこにこそこの時期の九鬼周造の最も哀しい「いき」の存在学が吐露されていたということである。
 端的には、次のような文章に九鬼が最も言っておきたい「いき」の発生がひそんでいる。

 「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起源をもつてゐる。

 苦界。そこは遊郭であって、この世に戻るために出遊してきた彼岸の場所である。芸も身もやりとりする曲輪であって、心は売れない岡場所である。
 流れているから、止まり、抜けられないから、何かを抜いてみせる意気の帳場である。冬でも黒塗の下駄を裸足で履いてみせ、野暮を蹴散らし、左褄(ひだりづま)とって、まるで瞬時だけにしか恋が生きない伝法を引き立たせる花街なのである。
 九鬼は、結局、そのようなところでしか「いき」は授受できないのではないかと考えていたふうなのだ。




 しかし、それでは九鬼の哲学者としての行方を、あまりに「小指の反り」のような極点へ向かわせてしまうのではあるまいか。西田幾多郎や和辻哲郎や友人たちが心配しはじめたのも、当然だった。けれども九鬼はすでにミッションを意識していたようだ。敢然と、こう言い放ちたいというところまで、進みすぎていた。

 私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる。

 この言葉はのちの『小唄のレコード』から採ったものだが、まさに九鬼の気持ちはそこまで進みすぎていたようなのだ。
 友人知人たちが、それならおまえがいるところは、すでに都であることをもぎ取られた京都なんじゃないか、京都に来たらどうだと思ったのも当然だった。

 ここから先、九鬼周造は一気に異例の人となり、伝説の人となっていく。
 最初の妻を捨て、二度目に選んだのは祇園の芸妓の中西きくえであった。失った母を近づかせたとはいえないだろうものの、京都帝国大学の教授としては、かなりきわどい選択だ。祇園から人力車で帝大に乗り付けているという噂も、しきりにとんだ。
 むろん、そんなことは覚悟のうえのことである。
 こうして九鬼は「偶然性」の解明にとりくんでいく。「もののはずみ」や「たまたま」の問題にとりくんでいく。「ふと」や「それから」の世界に入っていく。いったいそんな覚束(おぼつか)ないものばかりをあげて、どうしてそこまで真剣に賭けられるのかというほどに。
 それは『「いき」の構造』にはまだ残っていた原因と結果をめぐる「因果の理屈」さえ打擲しようというほどの、そういう「せつなさ」がいっぱいの考察である。ぼくにはそういう覚悟が痛いほど伝わってきた。満州事変は悪化して、日本はどんどん泥沼に突っこんでいった時期である。昭和10年、1935年、そういうときに九鬼周造は『偶然性の問題』という結晶を発表する。

 ここまでくると、その九鬼周造独得の偶然の存在学をあえて説明するのは、どうもその香りが伝わらない。
 それほど九鬼自身が自分が遣った言葉をも、その葩(はな)から揮発させていくような気分になっている。実際にも、そこには重たい言葉もひしめいていて、それを引用しなければその九鬼の推理の説明もつかないのだが、その言葉をすぐに揮発させ、投企しなければ、やはり九鬼の推理を感じさせることはできないという、そういうものなのだ。
 そこでかえって、次のような文章こそが、その偶然の存在学を告示しているようにぼくには思われる。『日本流』にもそこを引いたのだが、また引いてみたい。

 松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。

 これが、偶然であり、「いき」なのである。
 未練はもたない。鼻緒が切れれば、紬(つむぎ)の袖だって破るということなのだ。
 しかし、そんなところへひたすら突進していく哲学などというものが、あっていいのだろうか。それが芝とハイデルベルクとパリと祇園を学んだ末の結論なのか。
 そうなのである。よござんすか。
 九鬼周造はそれを断固として選びきったのである。それが哲学というものなのだ。そしてこの人は、その後、『日本的性格』や『風流に関する一考察』のほうへと、どんどんと一人で歩いていってしまったのである。そこは「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」の方角、だからこそ「昔はものを思はざりけり」の、その「ざりけり」の哲学の彼方というものだった。
 それを九鬼の大好きな言葉でいえば、「可能が、可能の、そういうふうになるところ」という彼方だ。そこはもとより寂しくて、恋しいところではあるけれど、だからこそ、どこよりも「いき」で、「粋」(すい)なところなのである。
 では、諸君、こんな文章で終えてみる。

 私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。




参考『「いき」の構造』は岩波文庫が入手しやすい。そのほかの九鬼周造の著作はけっこうあって、ほぼ岩波の『九鬼周造全集』全11巻に入っているが、甲南大学の九鬼周造文庫にはまだ未発表の草稿もある。全集以外では『「いき」の構造』を除くと、田中久夫が編集解説をした『九鬼周造エッセンス』がよくまとまっている。その田中久夫に『九鬼周造・偶然と自然』(ぺりかん社)がある。安田武と多田道太郎の『「いき」の構造を読む』(朝日選書)は、対談だが、いまのところ九鬼の「いき」をめぐって最も多様な視点の検討を披露している。そのほか坂部恵が『不在の歌・九鬼周造の世界』(TBSブリタニカ)を書いているが、入手しにくい。
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岡倉天心

松岡正剛 千夜千冊 「茶の湯」より抜粋
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01. 西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。

02. いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。

03. 茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。

04. われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。

05. 花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。

06. 宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。

07. 出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。

08. 数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。

09. 茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。

10. われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。
 

 大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。こういう要約はぼくには自信がある。ただしここにあげたのは天心の言葉(翻訳)そのままだ。だから十ヵ所の文章を切り取ったといったほうがいい。読みとりはいくらも深くなろう。たとえば01は欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、03は茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切ったのであるが、また09ではそれを「無始と無終の即興劇」と見抜いたのだが、そう言われて愕然と納得できるものが、むしろわれわれに欠けつつあるといったほうがいい。
 驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチに飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。
 たった十箇条にしてみても、『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿ったのだ。
 そもそも『茶の本』は虫の翅のように薄い一冊である。原文は英文でもっと短い。ここにとりあげた村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページに満たない。しかしながらここに含蓄された判断と洞察はいまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。
 そこで推理すべきは、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたかということである。それをどんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのかということである。
 けれども、それを推理するのはたいそう難しい。たとえばぼくには、天心の文章についてはほとんど読みきったという自負がある。ぼくが最初に買った全集は内藤湖南・南方熊楠に並ぶ岡倉天心全集で、以来このかた、その文章はひととおり読んできた。なかには数度にわたって読んだものも少なくない。評伝や評論のたぐいも目につくものは片っ端から読んだ。第289夜松本清張の天心論はいじわるで、大岡信のものはやさしすぎた。参考になったものも少なくないが、それにもかかわらず、ぼくの脳裡に言いたいことがいっぱいありすぎるのか、その言いたいことがいっぱいありすぎるのか、その言いたいことが天心の濃縮とは逆を進んでいるせいなのか、『茶の本』の要訣を結ぶようにはいかないのである。横溢感もしくは欠乏感がありすぎるのだ。
 それでも、それを搾って絞って言っておくべきことが何であるかは、だいたい見当がつく。それをここにごく少々お目にかけたいのだが、その前に、このように天心がぼくに近寄った理由の一端を先に書いておく。

 かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。それまでは『茶の本』『東洋の覚醒』『日本の覚醒』をこの順に読んで、胸の深部に太い斧を打たれたような衝撃を感じはしていたが、その天心の実像や思索の内側に入りこもうという気分はなかった。それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。
 五浦は、日本美術院研究所の跡を示す一本の石柱と天心旧居跡と墓所と天心記念館が風吹きすさぶ茨城の海岸を割っていたばかり、まさに茫漠と懐旧に浸るしかない風景だった。何もなかったといってよい。鉄筋コンクリートの記念館は寂しすぎたし、天心が愛した釣舟「竜王丸」も朽ちかけていた。なにより天心がいない。天心だけでなく、観山も大観も春草もいない。そこからはいっさいの体温の記憶すら消し去られていたかのようだったのだ。それは、まるで「われわれはかれらのことをもう忘れました」と言っているかのようだった。
 若すぎた早春の勝手な感想ではあったけれど、こういうときに小さくも衝動的なミッションが到来するのだろうか。ぼくは自分で自分なりの天心を復活させ、五浦から失われたものを自分の内に蘇生させなければならないと思ったのだ。すなわち、五浦に開く茫漠たる「この負」こそがぼくが継承すべき哲学や芸術や、そして五浦にかかわった天心・観山・大観・武山・春草の勇気そのものの空気だと感じられたのだ。
 それからどのくらいたったか。天心とその周辺の逆上をやっと語れるときがきた。40歳をすぎていた。しかしなんとかそうなるには、斎藤隆三と竹田道太郎が別途にしるした分厚い『日本美術院史』に記載された大半の出来事と人物の隅々ににわたる交流のこと、天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向と、そして見えにくい細部の経緯をあらかた身につける必要があったのである。天心をうけとめるとは、こんなにも辛いものかと思ったものだった。

 それではごくごく手短に、できるだけわかりやすく時を追いつつ書くことにするが、天心には「境涯」という言葉がふさわしいので、その「境涯」を折り紙したい。
  当初、その境涯の発端は父親が越前藩士として松平春獄の命で橋本左内らとともに脱藩したことにあった。ここには遠く朝倉一乗谷の景色がある。天心はこの記憶のなかで生を受けた。
 その天心が生まれ育ったのは横浜である。そこは欧米に向かって開かれた「窓」だった。そこには和洋折衷の典型としてのローマ字をおこしたヘボンも、英学校をつくったバラー宣教師も西洋思想を説いたブラウン教父もいた。7歳の天心はまさにヘボン塾とブラウン塾で英語を教わっている。この塾からはのちに富士見町教会を創設する植村正久も横浜ニューグランドホテルでボーイをしていた北村透谷も出た。が、9歳で母を亡くし、再婚した父の都合で10歳で神奈川の長延寺に預けられると、ここで漢籍に夢中になる。このことは、ついで14歳で東京開成学校(東大)に入った天心が森春濤{もりしゅんとう}に漢詩を習い、奥田晴湖に学んで大和絵の指導をうけたことともつながって、天心の山水思想を育んだ。ここでは省くが、この時期の天心の漢詩を読むと、師の水準をはるかに抜いているのがわかる。
 こうして天心は東大生になる。その在学中にハーバード大学からお雇い教師として来日した俊英アーネスト・フェロノサと出会い、早々に英語力を認められて通訳として重宝がられる。18歳で結婚もした。ここではやくも境涯を分けるちょっとした出来事がおこる。卒論に天高く「国家論」を書くのだが(このことにも注目したいのだが)、幼すぎる若妻がヒステリーかなんかをおこしてこれを燃やし、やむなく「美術論」でまにあわせたのがフェノロサを驚かせたこと、卒業して文部省の音楽取調掛に就職したところ、翌年にアメリカから帰ってきた伊沢修二とソリが合わず内記課に移ったことである。この偶然が天心をフェノロサの美術調査に随行させることになった。
 なかでも千年の眠りから覚めた夢殿観音との逢着はフェノロサよりも天心を決定的に「東洋の夢」に走らせた。その一方、このときの調査団長が九鬼隆一であったことも境涯を大きく左右した。九鬼周造の父親であり、その夫人波津との恋愛事件こそ天心を東京美術学校校長の座から引きずりおろし、それが奇縁で天心らは日本美術院をおこして五浦に籠城したのだ。が、それはまだ先の話になる。
 当時もうひとつ、天心を決定づけたことがある。とびぬけたエリート官僚であった天心は23歳で図画教育調査委員にも任命されるのだが、そこで学生指導の方法をめぐって小山正太郎と正面からぶつかった。これがよかった。小山は明治美術教育の大立者となった洋画家で、このときは洋風鉛筆の指導を主張したのだが、天心はこれをよく反撃した。毛筆にこだわったのだ。のちに東京美術学校で断固として「洋画科」を採用しようとしなかった方針は、ここに発している。だいたい時の権威者とぶつかれなかった者が時代を切り開けるわけがない。

 明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているというのだ。第98夜道元や雪舟の入宋入明体験と酷似して興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかったのだろう。これはたとえば、あれほどルネサンスに精通していた第607夜矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。
 明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。いまの芸大の前身である。天心はその校長であって、同時に帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立してそれらの牽引役をことごとくはたした。さらに高橋健三とは日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にもこぎつけた。まだなお28歳である。
 東京美術学校がいかに独創的で奇抜不敵であったかは省略する。天心の意匠指導によって教授陣がアザラシの皮の道服を着用させられたのだから、あとは想像がつくだろう。ともかくもここで「日本画」という概念と、その後の日本の美術界を二分する「日本画家という境涯」が初めて発芽した。それまで日本画という言葉はなかったのだ。大和絵か国画か和画だった。
 ぼくが感嘆したのは、この美術学校時代の天心の美術史講義である。帰国したフェノロサに代わって担当した。いまは平凡社ライブラリーで気安く読める『日本美術史』はごく端的にいって、民族主義・世間主義・個性主義・発展主義の4点がみごとに陰陽交差して噛みあって、当時としてはきわめて独創的なものになっている。世間主義というのは今日なら民主主義にあたるのだろうが、天心はこれを「世間にはびこる」と見た。

 ともかくもこのころの天心の境涯、すこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施してこれをみるみるうちに育てあげ(あまり知られていないが第758夜鴎外を美術解剖学の講師として招いたりもして)、他方では根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村・幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人とも遊芸の限りを尽くし、天心流の節会を遊んだ。料亭を借りきるばかりではない、明治25年の秋には隅田川に盃流しの宴を催した。ここにおいて、天心はすでに「教育と生活と表現と遊芸」をほぼ完全に融合させたのだ。それが「生の芸術」であり、「変装した道教」なのである。また美術学校の目標であった「特質ある傑物」を制作することだったのである。
 ここまでまとめていえば、天心はすでに美術・演劇・遊芸・教育をそのトップリーダーとの交わりを通してことごとく発信させていた。いわば文化行政のすべてにおいて試行しなかったものはなかったのである。なぜここまで手を打てたかということは、うまい説明がない。おそらくは天心が「不完全」こそ想像力が補える方法を生むという確信をもっていたこと、すべてはどのような領域においても「融合」しうるとおもえていたためではないかと、ぼくは読んでいる。
 しかし、そこまで融合がすすめばここには恋愛も加わってくる。予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、どちらがどうとはわからないものの、二人には何かが芽生えたようだ。明治二十年のことである。その後の経緯ははぶくけれど、結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に越して二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて、殉ずることを厭わなかった。
 これでは学校は蛻(もぬけ)の殻である。さすがに天心は困ったが、奮然と舵を切りなおすと谷中初音町に木造2階建の南北両館の展観型の学舎をつくり、ここに新たに日本美術院を創設してみせた。天心は「官」から「民」に降りたのだ。実はこのときの天心はスカンピンだったのだが、大勢から資金を集めようとしてままならず、かつて奈良古寺調査に同道し、アメリカでもいろいろ世話になった医師であってコレクターだったウィリアム・ビゲローに、ポンと1万ドルを郵送してもらっている。
 この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛は「太陽」論壇にさっそく篆大の筆をふるった。これも有名になった「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」である。ちなみに、アメリカで星崎初子が妊娠して産んだ子が九鬼周造になる。九鬼は自分が母と天心のあいだの子ではないかという疑念を、ときどきもったという。

 その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。
 またひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたことである。実は『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけたあと、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとにわたったときに書いて、ニューヨークで出版したものである。いずれも天心は世界と対峙したという実感をもったにちがいない。
 しかし天心はたんなる美学的なコスモポリタンになろうとしたのではなかった。グローバリズムなどを持ち出しはしなかった。ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明するのである。その意味はいろいろの態度と哲理と社会観と歴史芸術を含んだ。西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨は明快だったが、その含むところは多かった。のちに大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されたのはこのせいである。
 けれどもどんな反応が世間からやってきても、天心はまったく迷っていなかった。世間主義についてはとっくに見抜いていた。世間に対決する構想には徹底した「表現の凱歌」をあげるべきだと考えていた。かくていよいよ五浦に日本美術院の精鋭が移るときがやってくる。六角堂を建設し、それぞれの住居を建てた。これを機に家族とともに五浦に移ったのは大観・観山・武山・春草である。名画を次々に生んだ五浦は大観によれば「赤貧を洗う日々」だったという。

 この先の点景は書かないですますことにする。天心の境涯はここからしだいに寂しくなっていくのだが、今夜はどうもそれを書く気分になれそうもないからだ。
 むろんその寂寞は天心が望んだことだった。それは最後の草稿になったオペラ『白狐』のシナリオに如実にあらわれている。とはいえ、この寂寞は天心ほどの者をも静慮させるのだ。剣持忠四郎や菱田春草が相次いで早逝したこともある。ラフカディオ・ハーンの日本における日々を海外の論客が叩いたこともある。天心はこれには真っ先に抗議してニューヨーク・タイムスに反論の寄稿をしたものだ。それでもハーンすら海外で理解されていないことは、いったん世界に対峙したと思えた天心の境涯のどこかに小さな穴がじょじょに大きな空洞になっていくだろうという予感をもたらした。つまりは天心は日本の将来に不安をもったのであり、ということは日本の本来が失われていくであろうことを直観したのであり、そのことが自身が努めた計画の実践に不如意があったかもしれないという自省をもたらしていたのだった。
 それを天心の言葉で端的にあらわすなら、「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」ということになろう。想像力が負の花を咲かせるのである。ほんとうは、ここから先こそぼくが書かなければならない天心なのだが……。

附記¶あえて『茶の本』のモナドロジー化と履歴の折り紙を試みるにとどめた。ところで、『茶の本』も『東洋の理想』も『日本の覚醒』『東洋の覚醒』も英文であるのだが、天心の英文がどういうものかを示す恰好の例があるのでお目にかけておく。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」だ。天心英語は次のようになっている。

  I look beyond;
  Flowers are not,
  Nor tinted leaves.
  On the sea beach
  A solitary cottage stands
  In the waning light
  Of an autumn eve.

なお、本書はいろいろの版が出ているが、日本語としては岩波文庫が、英文が併設されているものとしては学術文庫が入手しやすくよくできているので、二冊を併記しておいた。また、その後に五浦は修改がおこなわれ五浦美術館として(内藤廣設計)、また茨城大学五浦美術文化研究所による五浦美術叢書の刊行も始まった。実は『岡倉天心アルバム』というものすらこれまでなかったのだが、これも五浦美術文化研究所の監修で、やっと中央公論美術出版から陽の目を見ることになった。
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2007年03月28日

スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ(翻訳)

PLANet.blog で公開されていたが、見つからないので、転載しておく。(ら・まんた)

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PART 1. BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。



 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。

 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。

 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

PART 2. COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

PART 3. CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータ設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。

 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

PART 4. FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。

 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

PART 5. ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。

 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
              
PART 6. DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

PART 7. STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」

 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。



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the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
翻訳 市村佐登美 satomi@mediaexpress.org
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2007年02月03日

耐震関連

1870 矢作建設 制震ピタコラム工法 (528)
4748 構造計画研究所 免震設計コンサルティング (1675)
5277 スパンクリートコーポレーション 穴あきPC板 (412)
5973 トーアミ コンクリート補強用溶接金網 (1460)
6282 オイレス工業 免震装置 (3050)
7438 コンドーテック 耐震ブレース (973)
8087 フルサト工業 鉄骨関連部材 (1808)
9615 東京美装興業 建物診断、リニューアル (850)
9784 日工検 非破壊検査 (1253)
9922 日立機材 鉄骨梁補強工法ハイリング (603)

4954 マークテック 非破壊検査用の薬剤・機械 (1535)
9648 ウエスコ 地質調査、建設コンサル (450)
9755 応用地質 地質調査、建設コンサル (1423)
5284 ヤマウ コンクリート2次製品メーカー (268)
1984 三信 土木基礎工事(158)
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2006年11月05日

グラミン銀行参考資料

20
〔研究ノート〕国際協力研究 Vol..18 No.2 (通巻36 号)2003.2 21
Note
坪井 ひろみ*
*山口大学大学院東アジア研究科博士課程
Hiromi TSUBOI
要 約
バングラデシュにあるグラミン銀行は、従来銀行融資の対象とならないとされてきた農村女性を対象に少額の無担保融資を行っていることで知られているが、1984 年に、雨漏りがする、水に浸かるといった劣悪な住環境を改善する目的で、住宅ローンを開始した。今日では、グラミン銀行から融資を受けている人のうち4 人に1 人がその住宅ローンで建てた住宅に住んでいる。その借り手の大半は女性である。
 本稿では、まず、貧困女性の現状、住宅ローン概要、女性の財産についての通念を述べたうえで、筆者の調査に基づき、家庭内において不安定な立場に立たされる場合が多い女性について、住宅ローンを利用して自己名義の住宅を所有するに至った女性と、住宅ローンを借りていない女性との比較を試みながら、特に財産面からとらえてみた。
 その結果、以下のことが明らかとなった。@住宅を建築するために、宅地委譲という形で男性(主に夫)からの協力を得ている、A住宅ローンの仕組みは宅地・住宅の所有者として女性を保護している、B住宅そのものが女性の大きな財産となっている、C女性にとって住宅は、老後の住み家となり得る永続的な居場所となっている、D貸家・貸間というビジネスが経済的な安定に寄与している。これらのことから、住宅ローンは、女性の生活に法的・経済的・社会的な安定をもたらしていることがわかった。

I はじめに―バングラデシュの女生と住宅ローン

 バングラデシュの貧困層注1 ) の女性は、家庭内において不安定な立場に立たされる場合が多い注2 ) 。家庭内における権威者は男性であり、この権威は離婚に際し端的に発揮される。たとえば、talaq(離婚するぞ)という言葉を夫が3 回唱えるだけで、離婚は比較的簡単に成立するといわれている。また、離婚という形でなくても妻が夫から遺棄されることもある(マローニー[1994 ]pp.28-29 )。さらに、バングラデシュでは年老いた親の扶養に関する責任の所在が曖昧なことから、夫に先立たれた老齢の妻は極めて不安定な立場に置かれる(外川[1993 ]pp.45-46 )注3 ) 。このような不安定な立場にある女性たちにとって、彼女らが身を置く場所、つまり住居の問題は深刻である。特に、貧困層の女性のうち、経済活動に従事している者は、大半がインフォーマルセクターの職業に就き、十分な収入を得ることができない状況にある。したがって、何らかの理由で女性が夫を失った場合、女性が住む場所は、@自己所有の住宅、A実家、B借家・間借り、C小屋のような家、D子どもの家(同居)、E今までどおりの住宅、F路上、であると考えられる。
 こうした状況の中で、グラミン銀行の住宅ローンが貧困層の女性にもたらす影響は大きい。本稿では、特に経済面の影響に焦点を当て、その意義を考えてみたい。

1.住宅ローン概要
 1984 年、グラミン銀行は、雨漏りがする、水に浸かるといった劣悪な住環境を改善する目的で、住宅ローンを開始した。これは、バングラデシュ政府が1993 年に明言した国家住宅政策(NationalHousing Policy )注4 ) に先駆けること9 年前のことである。グラミン銀行が提唱する理想的な住宅とは、その土地で調達可能な資材や技術を用いて安価に建築された、丈夫で、かつ安全で快適な、仕事場を兼ねた生活の場である(Nazrul,Amirul,Khadem[1989 ]p.24 )。また、グラミン銀行が提案する標準デザインは、床面積20m 2 (6 坪余り)、長方形の1部屋に切妻の屋根がある家である(Nazrul,Amirul,Khadem [1989 ]pp.24-25 )。借り手は、グラミン銀行から実費で標準タイプの家屋に必要なコンクリートの柱(市場から調達可能な場合はこの限りではない)と簡易トイレの提供を受けるが、それ以外は、設計から建築にかかわるすべてのことを主体的に行っている。実際に住宅建築では、家族の協力の下、住宅のデザイン、建築資材の購入と運搬、土壁や土床づくりが行われ、そして必要があれば大工やレンガ壁職人の、時には親戚の手を借りて家を建築している。こうして完成した住宅の多くは、トタン葺きの屋根に8 本の鉄筋コンクリートの柱があり、竹編またはトタンの壁で囲われた、工場や納屋を兼ねたものである注5 ) 。
 グラミン銀行年次報告書2000 年度版(GrameenBank [2001 ]pp.41-43 )によると、初年度(1984 年)、わずか317 軒だった住宅ローン融資の対象家屋は、16 年後の2000 年末現在には53 万3000 軒までに達し、累積貸付総額は75 億タカとなっている。住宅ローンの借り手は、男性が7.6%、女性が92.4%(Grameen Bank [2001 ]p.41 )であり、グラミン銀行から融資を受けている人たちのうち4 人に1 人が住宅ローンで建てた住宅に住んでいる。また、グラミン銀行は、バングラデシュにあるおよそ6 万8000 の村のうち、60%に当たる4 万225 村をカバーし、全土を15 に区割りした広域ゾーンにくまなく支店を配置し、業務を展開している注6 ) 。以上から、グラミン銀行の貧困層向け住宅ローン(グラミン銀行からの借り入れ時点で、土地所有が0.5 エーカー未満、あるいは1.0 エーカーの土地に相当する額以上の資産を持たない貧困世帯が貸し付けの対象)は、全国の農村部に広く普及し、政府の住宅政策を補完してきたことは明らかである。
 次に、調査時点のグラミン銀行住宅ローン規定を見てみたい。借り手に関する主な規定は、以下のとおりである注7 ) 。@住宅ローンの融資限度額は3 万タカであるが、地域により上限額は異なる、A利率は年8%で、毎週分割して払い、返済期間は最長10 年である、B融資対象者は、グラミン銀行の一般ローン(1 年払い)を毎週滞りなく2 件以上完済した実績を持つ者、C融資対象者は、本人名義の宅地を所有している者である、D担保は必要ないが、返済に関する責任は借り手同士の連帯責任となっている。借り手の連帯責任は、借り手5 人から成るグループ(5 人グループ)を基本として、最大8 グループまで統合された40 人規模の「センター」と呼ばれるグループにより担保される。
 ここで、宅地所有権と返済が滞った場合について、筆者の聞き取りに基づき補足したい注8 ) 。バングラデシュでは、家屋の所有権はその家が建つ宅地の所有者に属しており、通常、家屋だけの登記はない。そのため、住宅の所有権を得るためには宅地を所有する必要がある。グラミン銀行はこの制度にのっとり、本人名義の宅地を所有している借り手に住宅ローンを提供している。女性の申請者のほとんどが、夫から委譲された宅地を所有している者であった。住宅ローンを申請する際には、申請書と土地所有を証明する土地登記事務所発行の本人名義の権利書をグラミン銀行に提出しなければならない。ただし、住宅ローンの返済が完了するまでは、土地家屋の譲渡・転売は認められていない。返済に関しては、センター全体の責任とされているため、住宅ローンの借り手はセンター集会の場において慎重に選択されており、2000 年末現在の返済率は99%と、債務不履行に陥るケースは極めて少ない。万一問題が発生した場合は、他の借り手が住宅を購入して債務を引き継ぐ、あるいは借り手の夫に債務を引き継いでもらうなど、あくまでも話し合いによる解決策を導き出し法的手段に訴えることはしない、という方針が採られている。


2.バングラデシュの女性の財産についての通念
 バングラデシュの女性は、ハナフィ・イスラム法(The Hanafi Muslim Laws )注9 ) により、妻、娘、母といった立場から、故人の財産を相続する権利を有する。夫を亡くした妻の場合、8 分の1 を相続し、残りを息子と娘が2 対1 の割合で相続する。夫婦に子どもがない場合は、妻は4 分の1 を相続し、残りは亡夫側の兄弟といった親類に配分される。息子を亡くした母親は、彼女の孫(息子の子ども)に財産分与を行うという条件で、6 分の1 を相続できる。両親が死亡し、自分の兄弟がいない娘の場合は、2 分の1 を相続し、残りは父方の兄弟あるいはその子どもが相続する(Mizan [1994 ] p..40 )。
 次に、女性はこのような相続する権利をどのように行使しているか、一般にいわれている現実を見てみたい。
 バングラデシュでは、女性が自らの財力で資産を形成することは容易ではない注10 ) 。そのため、相続は最も一般的かつ合法的な財産獲得の方法であり、先に示したように女性にもその権利は与えられている。しかし、女性は伝統的に財産の相続を放棄し、それを兄弟に委譲しているのが実情である。そして、そのような行為は立派で分別があると見なされている。さらに、相続放棄の要因として、パルダ(purdah :女性を外部の者から隔離し、家の囲いの中で生活することを女性に要求する社会的慣習)を挙げることができる。パルダにより、バングラデシュの女性は農地を耕作する、あるいは収穫物を売買するという行為は規制されている(Zaman [1996 ]p.8 )。たとえ相続したとしても、その管理は夫や息子に委ねられている(バングラデシュ女性・児童省[1998 ]p.27 ;Zaman [1996 ]p.53 )。このように旧来の伝統が引き継がれ、女性は依存する存在である、と一般的に理解されている。
 さて、女性の財産相続放棄を伝統的社会規範に縛られた行為と受け止める一方で、3 つの意味でポジティヴに受け止める理解の仕方もある。それはナイオル(Naior :既婚女性が毎年、ある特定の時期に夫を伴わず実家に帰省する習慣)が持つ機能から生じている。1 つ目は、ナイオルが家族間の資産交換として機能し、インフォーマルな形での投資となっている、との見方である。つまり、女性が実家に帰省すると、兄弟は相続放棄の見返りとして農作物を土産として提供するということから交換が成立している、と解釈されているのである(Mizan [1994 ]pp.40-41 )。2 つ目は、ナイオルによって女性が受ける兄弟からの庇護は、女性の婚家での立場を強める機能を併せ持っている、とする見方である(外川[1993 ]p.44 )。3 つ目は、ナイオルを条件とした相続放棄は、離婚や夫の死後、実家に戻る際、肩身の狭い思いをしなくて済むような配慮となっている、という考え方である(海外経済協力基金委託[1997 ]p.21 )。
 以上から、伝統的慣習に従った女性の相続放棄は一般的であり、また相続した場合でも実質的な管理権は家長となる異性に委任されているのが現状である。したがって、経済的および社会的状況から見て、女性が土地を所有することは極めて困難であることがうかがえる。


II 調査の目的と方法
 上述した内容を踏まえて、住宅ローンを利用して自己名義の住宅を所有するに至った女性と、住宅ローンを借りていない女性との比較を試み、分析した。貧困層の女性にとって、住むところを確保できるか否かは非常に大きな関心事である。
 質問紙を用いた聞き取りは主に、グラミン銀行の住宅ローンによって住宅を得た女性と住宅を所有していない女性との比較を、「自己所有の住宅は女性の生活に安定をもたらしている」という仮説の下に、特に女性の財産面からとらえる目的で行った。調査は2001 年11 月に行われた。調査地は、ガジプール県にあるグラミン銀行ドッキンカンウットラ支店とバションガジプール支店の活動内にある村である。調査村は首都ダッカから車で1 〜2時間の距離にあり、電気が通っている世帯もある。聞き取り方法は、グラミン銀行本店の行員を通訳として戸別訪問をした。訪問面接の対象は住宅を得た女性と住宅を持てない女性との現状認識の違いを明らかにするために、@グラミン銀行住宅ローンの借り手(以下、グループA )、Aグラミン銀行に加入しているが住宅ローンの非借り手注11 )(以下、グループB )、Bグラミン銀行に加入していない者(以下、グループC )、各30 名、合わせて90 名の女性である。なお、グループC については、グラミン銀行の借り手に、彼女たちと同程度かそれ以下に貧しい女性を紹介してもらった。身なりや雰囲気、世帯主の職業などから、グラミン銀行の借り手以上の生活水準にある人は混ざっていないと判断した。


III 調査結果と分析
1.グループA の住宅に関する現状
 表−1 にて、調査対象者の社会的・経済的属性を、表−2 にて、グループA の住宅に関する現状をまとめた。まず、宅地については全員が委譲されており、実父からが1 名、夫からが29 名である(表−2 )。宅地を譲り受ける際、問題は発生していなかった。それは、グループA の夫が住宅資金の融資を希望しても一般の金融機関が要件とする十分な担保を持たず、また融資の対象となるような職業にも就いていない(表−1 )ことから、住環境を改善し、社会的なステイタスを向上させるためには、宅地を妻に委譲してでもグラミン銀行から融資を受ける以外に選択肢がなかったためである。バングラデシュでは、トタン屋根の家は金持ちと同意義であり、人々は、いつかはトタン屋根の家を持ちたいと熱望している(長田[1989 ]p.143 )。グループA の夫はその熱い思いを実現するために、妻に宅地を委譲したと考えられる。グループA には宅地を委譲された後、離婚した者4 名と寡婦2 名が含まれている(表−1 )。彼女たちは家から追い出されず、そこにとどまり生活していた。このことが可能だったのは、本人名義の住宅(宅地を含む)を所有していた点にある。したがって、離婚した夫はすでに所有権を妻に委譲していたため権利の主張ができず、家から出て行った。なお、女性が名義貸しに利用されローン完済後に所有権が夫に戻る場合が懸念されるため、所有権者を確認したところ、全員が住宅は自分名義であると答えた。

   表−1、表−2:略(ら・まんちゃん)

 次に、建築に要した額を見てみよう(表−2 )。借入額は、ドッキンカンウットラ支店とバションガジプール支店の限度額である2 万5000 タカが19名(63.3%)と最多であり、平均すると2 万1800 タカである。自己資金は、平均2 万3600 タカである。これらを合わせた建築総費用は、平均4 万5500 タカとなり、自己資金比率は52%である。なお、自己資金が借入額と同額かそれ以上の者は70%に上る。
 さらに、返済は個別の返済計画に従い、一般ローンと合わせて毎週分割して返済する方法が採られている。返済額は、週200 タカを超えない範囲と定められている。返済の原資については、夫がいないあるいは夫が無職である借り手の場合は、雑貨店経営、牛・鶏の飼育、裁縫など1 人で複数の経済活動を行い(表−1 )、そこから得た収入を返済に充てていた。夫がいる借り手の場合、自分で返済金を用意できないときは夫の収入に頼ることが多い。夫の職業は商店経営(高床式のバラックのような店舗での商いも含む)が最も多く(42%)、次に店員、行商、農業などである(表−1 )。また、住宅ローンで建てた家、またはその部屋を貸して家賃収入を得ている借り手が6 名(20%)おり、それを返済に充てていた。家賃収入は、月450タカが1 名、月500 タカが1 名、月600 タカが3 名、月800 タカが1 名であった。借り手がこうした収入を得ているという事実は、先行研究では触れられていないことである。
 ところで、住宅所有後の夫の態度や心境に、次のような変化が見られた。それは、@ローン返済金の一部を工面してくれるようになった(12 名:50%)、Aローンの重要性に気づいた(8 名:33%)、Bローンで建てた家からの家賃収入に満足している(2 名:8%)、C大きな家に満足している(2 名:8%)である。


2.住宅を自己所有する意味
 グループA に対し、本人名義の住宅を所有した利点を尋ねた。その結果をまとめたものが表−3である。この中から、貧困層の女性特有の利点を抽出すると、@財産を所有できた(77%)、A安全な場所を確保できた(30%)、B社会的地位を得た(30%)、C老後の住み家を確保できた(7%)などが挙げられる。また、グループA の中でただ1 人ではあるが、離婚した娘に対し、安心できる一時的避難場所として部屋を提供していた。グループAには、離婚した娘を抱えている世帯はこの1 例だけであるため、例外的か一般的かを明確にすることはできない。しかし、所有の住宅がこのように使われているケースは、本調査で新たに明らかにされたことである。
 グループB とグループC に対しては、女性が本人名義の住宅を所有する意味を尋ねた。グループA と同様に抽出すると、表−4 に示されるように、グループB は、@安全な場所の確保(67%)、A老後の住み家の確保(30%)、B社会的地位を得られること(27%)、C財産確保(23%)を挙げている。これらは、グループA が挙げた利点とポイント差はあるものの同じ内容である。このことから、女性が住宅を自己所有することに対するとらえ方の差異は、グループA とグループB では小さいと指摘できる。グループC は、@安全な場所の確保(43%)、A財産確保(13%)、B老後の住み家の確保(7%)を挙げている。しかし、グループC の半数は、「自分の家に住めること」と、問いに問いをもって答えている。このことから、グループC には、女性が本人名義の住宅を所有するという具体的な感覚はあまりないと指摘できる。したがって、グループC にとって自己所有の住宅というものは、グループB より現実味を帯びていないといえる。

表−3 グループA :本人名義の住宅を所有した利点:略(ら・まんちゃん)
表−4 グループB とグループC :女性が本人名義の住宅を所有する意味:略(ら・まんちゃん)

 以上から、貧困層の女性が住宅を自己所有する意味として、少なくとも3 点が指摘される。それは、@財産確保、A追い出されることのない安全な場所の確保、B老後の住み家の確保である。
 ところで、グループB とグループC は住宅ローンの借り手となっていない。そこで、その理由を見てみたい。グループB については、@グラミン銀行に加入しているが一般ローンを2 件以上完済した実績がないため資格がない、A宅地を所有していない、B夫が宅地委譲に同意しない、C住宅ローン返済の目途が立たない、D夫名義ではあるが満足できる住宅にすでに住んでいる、が挙げられる。この中でBの理由については、夫婦間の信頼関係の崩壊が危惧されるため、あるいはローン利用の利点をしのぐほど、夫の自己所有に対する執着心が強いためと考えられる。Cについては、部屋を貸すことで返済額を賄うことができるため、住宅を自己所有できる可能性は高いといえる。グループC については、グラミン銀行に加入していないため資格がない。しかし、グループB の90%、グループC の83%は住宅ローンの融資を希望していた。



3.住宅の満足度
 まず、住宅の整備状況については、グループBは本人名義の住宅に住んでいる者はなく、夫名義の住宅が27 名(90%)、借家・間借りが3 名(10%)である。夫名義の住宅のうち、屋根の葺き替えなど毎年補修している者が19 名(70%)、1 、2 年ごとに補修している者が7 名(26%)、6 カ月ごとが1 名である。グループC も本人名義の住宅に住んでいる者はなく、借家が20 名(67%)、夫名義の住宅が8 名(27%)、小屋のような家が2 名である。夫名義の住宅の補修状況は、毎年行っている者が5 名(63%)、2 年ごとが1 名、6 カ月ごとが1 名、3 カ月ごとが1 名である。なお、グループB の離婚者1 名とグループC の離婚者3 名、およびグループC の寡婦1 名は借家住まいであり、グループC の寡婦2 名は小屋のような家で暮らしていた。一方、グループA の住宅は、さまざまな災害にもほとんど修理を必要としていなかった。したがって、修理回数が多いグループB とグループC の住宅は、グループA よりも状態が悪いことがわかる。
 そこで、住宅に関する満足度を表−5 で見ると、グループA は全員が、自己所有の丈夫な住宅に満足している。グループB の満足度はグループA より低く、グループC はグループB よりさらに低い。グループC には全く満足していない者が60%以上いる。グループB とグループC の不満の理由は、グループB の場合は、家が狭いこと、ほぼ毎年修理を要することであり、グループC の場合は、借家住まい(間借りが多い)で家賃が家計を圧迫しているためである。調査地の家賃相場は、月450タカから600 タカであり、それが夫の収入に占める割合は60%に上る場合もあった。
 以上、「III 調査結果と分析」から明らかにされた主なことは、以下のとおりである。@グラミン銀行の住宅ローンを借り入れた女性は、住宅を建築するために、宅地委譲という形で男性(主に夫)からの協力を得ている、A住宅ローンの仕組みは宅地・住宅の所有者として女性を保護している、B住宅そのものが女性の大きな財産となっている、C女性にとって住宅は、老後の住み家となり得る永続的な居場所となっている、D貸家・貸間というビジネスが経済的な安定に寄与している。これらのことから、住宅ローンは、女性の生活に法的・経済的・社会的な安定をもたらしているといえる。

表−5 住宅の満足度:略(ら・まんちゃん)

おわりに

 これまで、グラミン銀行の住宅ローンのシステムがバングラデシュの貧困層の女性たちに与える影響、特に経済面における影響に焦点を絞って見てきたが、実際には女性たちの認識の向上、子どもの教育に対する考え方の変化、女性間のネットワークの広がりなど、より広範な社会的意義をもたらしていることも、調査を進める中で感じられた。
 経済面にとどまらぬ社会的変化をとらえるため、多角的なアプローチから、調査・研究・検証を行う必要がある。これが今後の課題である。

注 釈
1)本稿でいう貧困層とは,グラミン銀行のローン融資対象者となる0.5 エーカー未満の土地所有世帯(実質的土地なし層)を指す.こうした世帯は,1995/96 のデータによると,バングラデシュ全世帯の55%を占めている.農村部における1 世帯1 カ月当たりの平均所得は3658タカであるが,「実質的土地なし層」の1 世帯1 カ月当たり平均所得は,全くの土地なし世帯では2325 タカ,0.01 〜0.04 エーカー所有の世帯では2055 タカ,0.05 〜0 .49 エーカー所有の世帯では2793 タカである(Bangladesh Bureau of Statistics [1998 ] p..38 ).

2)たとえば、女性は簡単に離婚を言い渡される,あるいは夫から暴力を振るわれる,といった被害に遭っている.『人間開発報告書2000 (人権と人間開発)』(国連開発計画[2000 ]p.47 )によると,バングラデシュの女性の半数は,親密なパートナーから身体的暴力を受けた体験を持っていることがわかる.貧困層の女性の場合は,この割合よりもさらに多いと推測される.

3)トッド・ヘレンは,グラミン銀行の借り手を1 年間参与観察し,未亡人が家庭内でどのように扱われているか,具体的な報告を行っている(Todd [1996 ]pp.81-84 ).

4)政府はこの政策の中で,公的機関による住宅政策金融事業は国民の需要をほとんど満たしていないことを認めている.こうした現状を補完するものとして,近年,グラミン銀行による住宅資金の供給が開始された,とグラミン銀行の住宅ローンに触れている(海外経済協力基金委託[1997 ]p.5 ).

5)2000 年度のローン件数のうち,加工,製造,農業,畜産など主として家屋内で行われる経済活動は74.8%を占めている(Grameen Bank [2001 ]p.24 ).

6)支店総数は1160 に及び,その95%を占める1096 支店において住宅ロ―ンの取り扱い業務を行っている.広域ゾーンのうち,住宅ローンの件数が最も多いのはダッカ・ゾーンで,借り手の45.6%を占めている.逆に最も少ないのは,1998 年にコミラ・ゾーンから分離し,新たに設置されたノアカリ・ゾーンで,借り手の6.3%が融資を受けている.このように地域により住宅ローンの普及に差はあるが,平均すると借り手の4 人に1 人が,住宅ローンで建築した家に住んでいる.GrameenBank [2001 ]を参照.

7)調査時点における住宅ローン規定は,1998 年7 月26 日に通達された回状に基づく(グラミン銀行[1998 ]pp.1-3 ).

8)補足は,2001 年11 月20 日,グラミン銀行本店での筆者の聞き取りに基づいている.

9)ハナフィ・イスラム法とは,バングラデシュにおける財産の相続に関して,イスラム法に基づいて規定された法律である(Mizan [1994 ]p.40 )

10)通常,有給の仕事に従事し,資産,特に土地の購入資金を貯蓄できる女性は少ない.しかし,中には女性自身が資金を蓄え,ベナミ(benamee )(口約束だけの簡単な取引で土地を購入する方法で,全額支払いが済んだ時点で土地の所有が可能となるシステム)を通して土地を購入する場合がある.またベナミには,偽名で作成されてはいるが,法律上の書類として通っているものも含まれているが,いずれにしても,その女性が所有権者であると確認できる合法的な書類は存在せず,実際に,その女性の所有にならずに支払い済みの資金を失う場合もある(Mizan [1994 ]pp.39-40 ).

11)グラミン銀行は住宅ローンの他に,一般ローン,季節ローンなどを提供している.
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